ポン=ラベ 歴史

ポン=ラベ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/05/26 05:31 UTC 版)

歴史

廃墟のままであるランブールのサン・ジャック教会
古い絵葉書に描かれたポン=ラベの刺繍職人

11世紀、ポンの最初の領主は、ポン=ラベ川を横断する橋の先頭に封建時代のモットを建設した。その場所はロクテュディ修道院の敷地内であったが、9世紀のノルマン人襲来以降放棄されていた。

何人かの歴史家は、最初の領主はジュエル・デュ・ポンであったとみている。彼はドル包囲戦の際にイングランド王の捕虜となった。ヘンリー2世との間に結んだ条約による身代金を支払って、1174年に保釈された。しかし彼がポン=ラベの家門に属していたとは考えにくい。

初めて名が記されたのは、1220年代に書かれたカンペール大聖堂の特許状台帳においてである。この時の名称はエルヴェ(Hervé)であった。それは、ラテン語で『サン=テュディ修道院長』を意味するAbbas Tudiとして、世俗的な世襲として続いた可能性がある。このAbbas Tudiは、12世紀のランデヴェネック修道院やカンペルレ修道院の特許状台帳において、公的行為を行う世俗的な証であったと言及されている。

16世紀、ポン=ラベ男爵家の一部の者たちはユグノーであったため、彼らの一部は1572年にパリで発生した聖バルテルミーの虐殺において、建物の窓から外へ投げ落とされた。

ランブールの小教区民たちは、1675年に起きたビグダン地方での印紙税一揆に積極的に参加した。ルイ14世の名においてショルヌ公爵が指揮した弾圧により、暴動を起こすため人々に鐘を鳴らして知らせたからという理由で、ランブールのサン・ジャック教会の塔が低くされ、再建されることはなかった。教会は13世紀後半に建てられ、16世紀に再建されている。19世紀後半にはもはや建物は維持されておらず、保存修復に取り組んだものの、教会は1983年以降廃墟となっている。

ランブールの小教区はコンブリト教区に依存しており、かつてはシュヴァリエ島にサン・ジルダス礼拝堂が存在した。サン・セルヴェ礼拝堂は同じ名の村にあり、ジュスティス礼拝堂と呼ばれていたが、フランス革命中に国民資産として売却された。ランブールは1790年の一時期に教区であったが、ポン=ラベに併合された。革命の間、町はポン=マラー(Pont-Marat)と改名させられていた。

1937年、ポン=ラベの夏の観光客数は、ホテル宿泊者や滞在者を含め概算で1000人に達していた[2]




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