ファーモイ 歴史

ファーモイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/01 09:08 UTC 版)

歴史

ブラックウォーター川南岸に建つグランド・ホテル・ファーモイ

1791年、ファーモイ一帯の土地がスコットランド人企業家のジョン・アンダーソンの所有となった。彼はアイルランドの街道を整備し、郵便システムを構築した人物で、彼が設計した都市区画は現在もそのまま残っている。子孫が住むオーストラリアの町では「ファーモイ・エステート」というワインがつくられている[6]。2001年には町の公園に彼の銅像がお披露目した。アイルランドが帝国の支配下にあった1797年にイギリス軍が恒久的な軍事基地の建設地を探していたところ、アンダーソンがファーモイの土地を譲渡したことから大規模な兵舎が置かれた。まず1806年、16.5エーカーの土地に東兵舎が建てられた。この建物には将校が136人、歩兵が1478人、民間人が120人、騎兵の馬が112頭泊まることができた。また、130床の陸軍病院も併設された。1809年には42床の陸軍病院を備えた西兵舎が建てられ、両棟あわせて佐官が14人、将校が169人、兵士が2816人、馬が152騎収容できた。この軍事基地は、1830年代にはアイルランド島内でも最大の規模とされた。これにより、アンダーソンと町は相当の経済的恩恵を授かり、1922年のアイルランド自由国建国まで町はこれらの軍事施設を中心に発展していった。独立戦争中、イギリス軍と共和軍(IRA)が最初に衝突したのもファーモイであった。イギリス軍はこの報復として、中心街を荒らしまわった。独立戦争中にハンガー・ストライキを決行し亡くなったIRA指揮官のマイケル・フィッツジェラルドはファーモイの出身である。


  1. ^ Census for post 1821 figures.
  2. ^ http://www.histpop.org
  3. ^ アーカイブされたコピー”. 2012年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月24日閲覧。
  4. ^ Lee, JJ (1981). “On the accuracy of the Pre-famine Irish censuses”. In Goldstrom, J. M.; Clarkson, L. A.. Irish Population, Economy, and Society: Essays in Honour of the Late K. H. Connell. Oxford, England: Clarendon Press 
  5. ^ Mokyr, Joel; O Grada, Cormac (November). “New Developments in Irish Population History, 1700-1850”. The Economic History Review Volume 37 (Issue 4): 473–488. doi:10.1111/j.1468-0289.1984.tb00344.x. http://www3.interscience.wiley.com/journal/120035880/abstract 
  6. ^ Fermoy Estate
  7. ^ Further jobs blow for Fermoy - BreakingNews.ie
  8. ^ Fermoy station (PDF)”. Railscot - Irish Railways. 2007年10月14日閲覧。


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