ジブラルタル包囲戦 (1315年) 余波

ジブラルタル包囲戦 (1315年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 06:03 UTC 版)

余波

ヘネラリフェ宮殿に彫られたイスマーイール1世を称える詩

1316年の夏の終わりに、ペドロ王子とイスマーイール1世は1317年3月31日までの休戦に合意した。ペドロ王子は1317年に再びグラナダに侵攻したが別の休戦で終わるが、同年に教皇ヨハネス22世から十字軍遠征の勅令を賜り、教皇は戦争支援のために教会が徴収した資金を使うことを認めた[10]。戦争は1318年春に再開され、秋頃にペドロ王子とイスマーイール1世は別の休戦協定に合意した[11]。ナスルを支援するという口実にかかわらず、当時のペドロ王子の意図はグラナダ全域の占領にあり、"I would not be a son of King Don Sancho, if, within a few years, if God gives me life, I did not cause the house of Granada to be restored to the Crown of Spain."と宣言した[12][13]。カスティーリャのグラナダに対する脅威は1319年6月のベガ・デ・グラナダの戦い英語版で終わり、この時、Uthman ibn al-Ula率いるグラナダ軍がカスティーリャ軍を敗走させ、共同摂政だったペドロ王子とフアン王子が戦死した[14][15]

脚注

注釈

参考文献


  1. ^ O'Callaghan 2011, pp. 128–129.
  2. ^ O'Callaghan 2011, p. 133.
  3. ^ O'Callaghan 2011, p. 137–138.
  4. ^ O'Callaghan 2011, p. 138.
  5. ^ a b c Hills 1974, p. 54.
  6. ^ a b c Vidal Castro: Ismail I.
  7. ^ a b c d Latham 1973, p. 119.
  8. ^ a b López Fernández 2003, p. 154.
  9. ^ O'Callaghan 2011, p. 141.
  10. ^ O'Callaghan 2011, pp. 139–143.
  11. ^ O'Callaghan 2011, pp. 142–143.
  12. ^ O'Callaghan 2011, p. 143.
  13. ^ Al-Zahrani 2009, p. 357.
  14. ^ Hills 1974, p. 55.
  15. ^ O'Callaghan 2011, pp. 144–145.


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