シュラクサイ包囲戦 (紀元前397年)
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紀元前396年夏:包囲戦失敗
海戦が実際に起こったか否かはともかく、両軍の戦略的状況は夏になっても変わらなかった。ヒミルコはシュラクサイを占領できず、ディオニュシオスもカルタゴ軍を撃退できなかった。また両軍ともに海上補給に依存していた。このような中でカルタゴ軍にペストが発生し、また夏の暑さにも苦しめられることとなった。
ペスト[50]
ペストの蔓延は紀元前429年の「アテナイのペスト」(ただし最近の研究では天然痘または発疹チフスと考えられている)と同様に、湿地での衛生維持が不十分なことと、マラリアも原因となったと考えられる。感染で死亡した兵の数は膨大で、当初は死体はすぐに埋葬されたが、やがて埋葬が追いつかなくなり、腐敗した遺体の悪臭が漂った。感染に対する恐怖から、罹患者への治療も適切に行えなくなった[6]。
この悲劇の原因は、ギリシアの神殿と墓を冒涜したためと考えられた。アクラガス包囲戦において、ヒミルコは同様の事態に対処するために子供と各種の動物を生贄としてささげている。しかし、ヒミルコがどのような手段を講じたとしても、ペストに対しては効果がなかった。カルタゴ軍の兵力は大幅に縮小し、戦闘可能な軍船も大幅に減った。ヒミルコとカルタゴ軍はそれでも頑固に野営地にとどまったが、カルタゴ軍の士気も戦闘力も低下した。
ディオニュシオスの攻撃
ディオニュシオスはこの機会を利用し、カルタゴ軍が回復あるいは援軍を得る前に、水陸両面攻撃の実施を計画した。レプティネスとファラキダスの指揮した80隻の軍船が準備され[51]、ダスコンに係留されているカルタゴ船を攻撃し、ディオニュシオス自身は選抜された兵士を率いてカルタゴ軍野営地を攻撃することとした。南方の野営地を直接攻撃することは避け、野営地西方のキアネ神殿付近を大きく迂回して、夜明けと共に攻撃する計画であった。海軍は陸軍の攻撃が開始された後に出撃する。この作戦の成功は、陸軍と海軍が時間的に協調した攻撃ができるか否かにかかっていた。もしタイミングがずれてしまうと、紀元前405年のゲラの戦いの敗北が繰り返されることとなる。
裏切り
ディオニュシオスは夜間に行軍して無事キアネ神殿に到着した。夜が明けると、騎兵と傭兵1,000からなる部隊を野営地を直接西方から攻撃させるために送り出した。これは陽動かつ棄兵作戦であり、ディオニュシオスは騎兵に対して、カルタゴ軍との戦闘が始まったら反抗的で信頼できない傭兵を見捨てるように命令していた[52]。攻撃が開始された後にギリシア騎兵は戦場から逃走し、傭兵部隊はカルタゴ軍に虐殺された。ディオニュシオスはカルタゴ軍の目をそらし、また信頼できない兵士を排除することに成功した。
カルタゴ要塞攻撃[53]
傭兵が虐殺されている頃、ギリシア軍本体はゼウス神殿近くのポリクナ要塞と海岸近くのダスコン要塞に攻撃を開始した。騎兵部隊もダスコンへの攻撃を開始し、同時にギリシア艦隊も出撃し野営地近くに係留されているカルタゴ艦隊を攻撃した。カルタゴ軍は奇襲を受けた形となり、組織的な反撃が開始される前に、ディオニュシオスは野営地外側でカルタゴ軍を打ち破り[54]、ポリクナ要塞の急襲に成功した。その後野営地と神殿に対する攻撃が開始された。カルタゴ軍はなんとか持ちこたえ、夕方には戦闘は終了した。
カルタゴ艦隊破壊される
カルタゴ艦隊はペストのために人員が不足しており、多くの船が放棄されていた。ギリシア艦隊もダスコンに係留されていたカルタゴ艦隊(五段櫂船40隻を含む)に対する奇襲に成功し[55]、カルタゴ海軍は迅速な対応ができず、そのうちに全シュラクサイ艦隊が攻撃に加わった。海上にあった何隻かは衝角攻撃で撃沈し、何隻かは陸兵が移乗して小競り合いの後に鹵獲した。またディオニュシオス率いる騎兵も停泊している船に焼き討ちをかけたが、係留索が燃えたおかげで脱出できた船もあった。カルタゴ船の乗員は海に逃れて海岸に泳いだ。火事は野営地にも達したが、その一部を焼いた後に鎮火した[56]。カルタゴ陸軍はギリシア陸軍の攻撃に対処するのに忙しく、海軍を救援することはできなかった。商船や小船もシュラクサイから出撃してダスコンに向かい、漂泊しているカルタゴ船を何隻か鹵獲した。他方、海岸近くの要塞もギリシア軍の手に落ちた[50]。ディオニュシオスはそのままゼウス神殿近くで野営し、艦隊はシュラクサイに引き上げた。
戦闘終了
ギリシア軍はポリクナとダスコンの要塞は占領したものの、カルタゴ軍野営地とゼウス神殿は未だカルタゴ軍の手にあった。またカルタゴ海軍の残存船も多かった。しかしディオニュシオスはイニチアチブを手にし、援軍を得るか思いがけない進展がない限り、ヒミルコには紀元前480年の第一次ヒメラの戦いに匹敵する悲劇が襲い掛かってくる可能性があった。
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