シャルル=アルフォンス・デュ・フレノワ シャルル=アルフォンス・デュ・フレノワの概要

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シャルル=アルフォンス・デュ・フレノワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/26 23:37 UTC 版)

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シャルル=アルフォンス・デュ・フレノワ
Charles-Alphonse Du Fresnoy
自画像
生誕 1611年
フランス,パリ
死没 1668年1月16日
フランス,ヴィリエ=ル=ベル

略歴

パリで薬剤師の息子に生まれた。医療に関する仕事の訓練を受け、ラテン語、ギリシャ語を学んだが、美術の道に進んだ。パリでイタリアで学んできた画家のフランソワ・ペリエシモン・ヴーエに学んだ。21歳になった時に、仕事のあてのないままローマに修行に出て、遺跡や建物を描いた[1]

2年間ローマで暮らした後、ブーエのもとで一緒に学んだピエール・ミニャールがローマに修行に来たことによって、ミニャールの援助で仕事が得られるようになった。ラファエロや古典を研究し、1653年からにヴェネツィアに移り、1656年にパリに戻った。フランスではランシー城(Château du Raincy)の装飾画を描いたとされる。脳卒中を起こしパリ近くで没した。[1]

絵画に関するデュ・フレノワのラテン語の詩、『画論』("De arte graphica")はイタリア滞在中に執筆され、ピエール・ミニャールによって出版された。1668年にロジェ・ド・ピル(Roger de Piles)によってフランス語に翻訳されたのをはじめ、いくつかの言語に翻訳され、17世紀、18世紀の画家に影響を与えた[2] 。英語にはジョン・ドライデンが翻訳した。イギリスの画家のジョシュア・レノルズが注釈を加えて出版されたりした。

作品



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