コンラート (ロートリンゲン公) コンラート (ロートリンゲン公)の概要

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コンラート (ロートリンゲン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 10:13 UTC 版)

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コンラート赤公
Konrad der Rote
ロートリンゲン大公
在位 944年 - 953年

出生 922年
死去 955年8月10日
レヒフェルト
配偶者 リウトガルト・フォン・ザクセン
子女 オットー1世
家名 ザーリアー家
父親 ヴォルムスガウ伯ヴェルナー5世
母親 ドイツ王コンラート1世の娘ヒキナ
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ザーリアー朝の始祖コンラート2世は曾孫に当たる。赤公あるいは赤毛公(der Rote)とも呼ばれる。

生涯

941年、父の跡を継ぎヴォルムスガウ伯となり、神聖ローマ皇帝オットー1世に忠実に仕えた。944年にオットー1世はコンラートをロートリンゲン大公に任じ、947年にはコンラートを自身の娘と結婚させ連携を強めた[1]。しかし、951年にオットー1世がイタリア遠征を行った後、コンラートはイタリアベレンガーリオ2世をオットー1世にとりなした結果、ベレンガーリオ父子はイタリア王位を追認され、コンラートはベレンガーリオとの交渉を仕切ったが、オットー1世の弟のバイエルン大公ハインリヒ1世の横槍が入り、コンラートは面目をつぶされた格好となった。

コンラートの妻の同母兄にあたるシュヴァーベン大公リウドルフは、父オットー1世の再婚やベレンガーリオ2世への処遇に対してオットー1世に不満を抱いていたが、コンラートは義兄に同調し、953年にリウドルフと共にオットー1世に叛旗を翻した。結果、コンラートはロートリンゲン大公位を剥奪され、大公位はオットー1世とハインリヒ1世の弟でケルン大司教ブルーノに与えられた。その後、954年6月の帝国会議においてコンラートはオットー1世と和解した。

955年、ハンガリー人のバイエルンへの侵攻に対し、コンラートは第四軍のフランケン軍団を指揮して戦った。同年8月10日、レヒフェルトの戦いにおいてコンラートは善戦したものの自身は戦死した。オットー1世はその死を悼み、遺体をヴォルムスに運ばせ、丁重に葬った[2]

子女

947年、神聖ローマ皇帝オットー1世の娘リウトガルトと結婚した。

  • オットー1世(948年頃 - 1004年) - ケルンテン大公(在位:978年 - 985年、995年 - 1004年)

参考文献

  • 成瀬治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • コルヴァイのヴィドゥキント、三佐川亮宏 訳 『ザクセン人の事績』 知泉書館、2017年
先代:
オットー・フォン・ヴェルダン
ロートリンゲン公
944年 - 953年
次代:
ブルーノ

  1. ^ コルヴァイのヴィドゥキント、p. 154
  2. ^ 瀬原、p.86


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