ケーニヒスベルク条約 (1656年)
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結果
ケーニヒスベルク条約の後、スウェーデンの戦況が悪化するとともに6月25日にマリエンブルク条約が締結され、ブランデンブルク=プロイセンはスウェーデンの同盟国に昇格した[8]。
カール10世の封臣のままだった[2]フリードリヒ・ヴィルヘルムは参戦、スウェーデンとブランデンブルクの連合軍は7月のワルシャワの戦いでポーランド軍を撃破した[9]。ケーニヒスベルク条約以前にはフリードリヒ・ヴィルヘルムはポーランド王ヤン2世カジミェシュの封臣だったが、ヤン2世はタタールがスウェーデン人を朝食のように平らげた後[注 1]、自身がフリードリヒ・ヴィルヘルムを「日も月も昇らないところ」で逮捕すると宣言した[2]。8月、ヤン2世はヴィンツェンティ・コルヴィン・ゴシェフスキにプロイセンに侵攻させ、「フリードリヒ・ヴィルヘルムの裏切りに懲罰を与えた」[10]。ゴシェフスキが10月に撃退されるまで、13町250村が放火され、この出来事は20世紀までの現地の民話で言い伝えられた[11]。
数か国に宣戦布告されたカール10世は1656年1月にフリードリヒ・ヴィルヘルムとラビアウ条約を締結、フリードリヒ・ヴィルヘルムがエルムラントを放棄して、戦争への取り組みを強化する代償としてプロイセン公国がスウェーデンの封土ではなくなった[12]。その後のヴェーラウ条約とブロンベルク条約ではフリードリヒ・ヴィルヘルムがポーランド側に鞍替えしたためヤン2世がフリードリヒ・ヴィルヘルムのプロイセンにおける主権を確認した[13]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g Frost (2000), p. 171.
- ^ a b c d e f g Press (1991), p. 402.
- ^ a b c von Moerner (1965), p. 201.
- ^ a b c d e Press (1991), p. 401.
- ^ Frost (2000), p. 172.
- ^ Press (1991), pp. 401-402.
- ^ Evans (1997), p. 54.
- ^ Frost (2000), p. 173.
- ^ Frost (2000), pp. 173-174.
- ^ Frost (2000), p. 177.
- ^ Frost (2000), p. 178.
- ^ Press (1991), pp. 402-403.
- ^ Press (1991), p. 403.
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