エグランティン・ジェップ エグランティン・ジェップの概要

エグランティン・ジェップ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/24 20:51 UTC 版)

エグランティン・ジェップ

少女時代

彼女は1876年、シュロップシャー州エルスミアに生まれ、彼女の家族の地所で育った。ジェップ家は、他の裕福な家族と違って、強い社会的な意識を持ち社会的な活動にも積極的に参加していた。彼女の母エグランティン・ルイザ・ジェップは、田舎の暮らしの中で若い女性たちにアーツ&クラフトを広めていく目的で、ホーム・アーツ&インダストリー協会を設立した。彼女の妹ルイザは、第二次大戦中、男子の出征によって人手不足となった農場の労働力を補うため農業促進婦人会の結成を支援した。またその妹ドロシー・フランシス・ジェップは、イギリス労働党の党員だったチャールズ・ローデン・バクストンと結婚。戦後のドイツの悪者化に反対してキャンペーンを展開した。

社会活動

エグランティンは、オックスフォード大学のレイディ・マーガレット・ホールで歴史学を学んだ後、小学校の教師になるためのトレーニングを受けた・しかし、マールボロの小学校での1年の教員生活の後、彼女はそれが自分の職業ではないと確信した。彼女はその人生の後半生になって、その時見た幻覚を次のように説明している。「私が窮地に陥っていた際に、キリストの御顔が私の前に立ち現われたのです。・・・私の担当クラスの壁に王冠を頂いたキリストの安っぽい絵が飾られていました。私がこの予期しない出来事を目の当たりにした時、なにかあきらめにも似た気分に圧倒されたのです。・・その後、私は主なる神と同じくらいキリストにおける神を私がどんなにか必要としているか、そんなことはいまだかつてなかったことに気がつきました。そこで私は、その悲しみの中でどうか神よ、私の人生を照らし、その死の時まで私の口からでる言葉に祝福を与えて下さいと願う幸せを見出したのです。」

彼女は、自分の母親の世話をするためにケンブリッジに移り、そこで慈善活動に近代的な科学的アプローチを試みる慈善組織協会に参加する。この会と共に彼女は町のさまざまな問題を広汎な範囲で解決していく活動に参加した。そして、1906年彼女は、その活動と実践に基づいて『ケンブリッジ、社会的な問題の研究』という本を出版する。この著作はあまり反響をもたらさず、彼女は、なお数年間、なお静かな暮らしを続ける。1913年彼女は、マケドニア救済基金のためにマケドニアまで出かける気はないかとの依頼を受ける。彼女は第一次世界大戦が勃発する寸前に帰国し、間もなくヨーロッパの新聞を輸入販売し始めていた妹のドロシーが企画したプロジェクトに引き込まれていく。この輸入新聞にはドイツやオーストリア=ハンガリーのものも含まれており、こういうものを輸入するには政府の特別の許可が必要だったりした。ドロシーはそれらから記事の抜粋をつくり英語に翻訳して、「ケンブリッジマガジン」として刊行し、敵国の日常生活の状態が、敵国政府がプロパガンダとして流しているものよりもはるかに悪いレベルだということを暴露したのである。

戦争が終結に近づき、ドイツとオーストリア=ハンガリーの経済が、ほとんど破綻に近くなってきた時、ドロシーとエグランティンは、これらのかつての敵国の子どもたちはあきれるほど戦争と連合国軍の経済封鎖の影響を直接に被って、停戦条約が締結された後もそれがなお尾を引いていることに憂慮した。1919年、圧力団体、飢餓との戦い委員会を立ち上げ、経済封鎖が終結するまで英国政府に働きかけ続けた。

セーブ・ザ・チルドレン

しかしながら、まもなくその活動の焦点が変わっていく。1919年4月15日、委員会は、ドイツとオーストリアの子どもたちを救済する基金を立ち上げた、セーブ・ザ・チルドレン基金である。予想に反して、この組織が、1919年5月19日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでその産声を上げると、イギリス中から膨大な金額の寄付が寄せられ、組織は直ちに救済活動に着手することとなった。基金の成功のおかげで、エグランティンとドロシーは子どものための国際的な活動団体を立ち上げることに思い至った。国際セーブ・ザ・チルドレンは、1920年ジュネーヴで創設され、イギリス・セーブ・ザ・チルドレンとスウェーデンのこれに対応する組織「ラッダ・バルネン」がその中心的な役割を担った。

ロンドンでは、責任ある立場にいるのはエグランティンただ一人であった。そして彼女は、基金は彼女が慈善組織協会で学んだ専門的なアプローチを用いていることを確約した。事務局長のルイス・ゴールデンは、組織をビジネスライクに運営して行くためにスタッフを集めることを任された。彼はそのために全国新聞に全頁の確信的で、いろいろ論議を呼び起こした広告を打って、募集をかけた。これは非常に斬新で効果的な試みで、基金の活動のための資金も大幅に伸びた。

中央ヨーロッパでの問題が徐々に終息してくると、基金の新たな注目を惹くようになったのはギリシアとそれを取り巻く地域の続発する紛争問題の結果としての難民問題であった。1921年、この状況がようやく終息するかに思えたとき、新たにさらに大きな緊急事態が勃発した。それは部分的にはこの戦争、革命、内戦による荒廃も一因ではあったのだが、また部分的にはロシアのボルシェビキ政府の破滅的な経済政策のためでもあったが、ソヴィエト・ロシアの人々は収穫の激減という1921年の大飢餓に直面していた。新たに基金を立ち上げる努力が実を結び、寄付が一挙に集まり、セーブ・ザ・チルドレンチームは、ロシアの大飢餓(ホロドモール)の中心地のひとつであつたサラトフに派遣された。




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