エグランティン・ジェップ
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児童の権利宣言
この基金が行ったすべての活動を通じて、エグランティンの思想の中核にあったものは、計画的で、調査に基づいた試みの大切さということであった。1923年、ロシア危機の緩和への努力がその幕引きに近づき、基金の収入がかなり減少になってきた時、彼女は直ちに新たな別の話題を発見した。それが子どもの権利論争である。彼女は国際連盟の本拠地ジュネーヴに、児童憲章の草稿を手に足を運んだ。
子どもの権利を提唱し、子どもの権利を目下計画中の国際社会の企ての最前面に押し出すことを義務と訴えるこの計画書はエグランティンによって執筆された簡潔にして明快な文書であった。子どもの権利宣言は、ジュネーヴ宣言という名でも知られるが、この時初めに世に知られ、1年ののち国際連盟で正式に採択されたものである。ヨーロッパに再び平和が戻り、ロシアの緊急支援活動も終わり、セーブ・ザ・チルドレン運動の焦点は、かの宣言の推進へと移っていった。1925年、第1回の国際児童福祉会議がジュネーヴで開かれた。宣言は、各種機関や各国によって広汎に議論され支持を受けた。その後さらに拡張されたものが1959年国際連合により採択され、これは1989年児童の権利条約としてその花をつけたものに、きっかけを与えたもののひとつとされている。
死と遺産
1928年エグランティンは心臓病を発症し、その後3度にわたる甲状腺腫の手術を受けるなど、何年にもわたり闘病生活を余儀なくされ、ジュネーヴの療養施設で亡くなり、セント・ジョージ墓地に埋葬された。今日、セーブ・ザ・チルドレン運動のアイディアを発想した創始者としてその名は今も記憶にとどめられており、90年も前今日のようなインターネットなどの広告宣伝の手段もなかった時代にあのような活動を、ただ国際主義者にして、非党派的で専門家的なやり方のみで統率した手腕は称賛に値する。
参考文献
- Brian Harrison, "Jebb, Eglantyne (1876?1928)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004 accessed 6 Jan 2007
- Francesca Wilson - Rebel Daughter of a Country House (London 1967)
- Clare Mulley - The Woman Who Saved the Children: A Biography of Eglantyne Jebb Founder of Save the Children, Oneworld Publications, ISBN 978-1-85168-657-5
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