イーストプロビデンス (ロードアイランド州) 歴史

イーストプロビデンス (ロードアイランド州)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/24 09:13 UTC 版)

歴史

1641年、プリマス植民地が今日のイーストプロビデンス(ワチェモケットからラムフォードまで)を含む広大な土地をインディアンから購入した。この土地には他に現マサチューセッツ州のレホボスやシーコンク、ロードアイランド州のポータケットの一部まで含まれていた。その4年後、プリマスのジョン・ブラウンがインディアンからかなり小さな土地を購入した。そこにはイーストプロビデンスの南部(リバーサイド)、バーリントンおよび現マサチューセッツ州のスワンシー小部分で構成されていた。最後は1661年、プリマスが「北部買収」を完成させ、そこには現マサチューセッツ州のアトルボロ、ノースアトルボロおよびロードアイランド州のカンバーランドの町ができた。この大きな開拓地の中心は「オールド・レホボス」と呼ばれることもあり、現在のイーストプロビデンスの市域に含まれている。1812年、オールド・レホボスの東側半分がマサチューセッツ州シーコンクと呼ばれる別のタウンシップとなった。オールド・レホボスの町の中心は現在オールド・シーコンクの中心部になっている。1862年、オールド・シーコンクの西側がロードアイランド州に割譲され、イーストプロビデンスとして自治体化された。

ワチェモケット

南北戦争に先立つ数十年間、ワチェモケット・ポイントは恐らく住人数百人の農業と漁業の地帯に過ぎなかった。ワチェモケットは繁栄するプロビデンス市の対岸に位置していたので、プロビデンスが拡大することの恩恵を受けていた。さらに重要なことはプロビデンスとの間のシーコンク川に2つの橋が架かり、行き来が容易になったことだった。1869年代までにこのワシントン橋とセントラル橋の通行料が廃止されてワチェモケットの成長に大きな刺激となり、眠ったような漁業の村から1862年に自治体化されたイーストプロビデンスの町の重要な中核に変わって行った。ワチェモケットに入ってきた最初の事業はここを通る多くの旅人のために建てられた宿屋だった。ワチェモケットの住人は1870年代初期までに自分達の図書館を持った。最初はその組織者達が婦人図書館協会と名付けたが、1885年にワチェモケット自由公共図書館と名前を変えた。1880年代半ばにはワチェモケットが商業と住宅の中心になっていたが、さらに政治の中心にもなった。町役場がラムフォードからワチェモケットの中心部に遷されたので、容易に接することができるようになった。政治指導者はトーントン・アベニューに沿った土地を11,500ドルで購入し、1889年には2階建てのレンガ造り建物が開館した。同年、イーストプロビデンス警察署が町役場内にその事務所を構えた。1900年頃から世界恐慌の始まった1930年まで、プロビデンス、フォールリバーニューベドフォードおよびポルトガルから多くのポルトガル人移民がイーストプロビデンスに入ってきた。1905年までに町には400人以上のポルトガル人がおり、州内でもその多さは3番目になった。ポルトガル人は他の少数民族と同様に、主に仕事を求めてイーストプロビデンスに来ていた。ワチェモケット地区には多くの雇用機会があり、多くの移民が入った。

ラムフォード

1862年に町制を布いてから暫くの間、古い「緑の環」周辺の地域がイーストプロビデンスの中心と呼ばれていた。正式な町役場が1889年までここに置かれ、幾つかの教会もあった。さらにテンマイル川にそって多くの農場や工場がありイーストプロビデンスの人口中心でもあった。その後イーストプロビデンスの人口中心がワチェモケットに移っていった。

リバーサイド

ワナモイセットを購入した1645年から南北戦争まで、ワチェモケットからバロックス・ポイントに至る海岸はほとんど人の住まない農業と漁業の地のままだった。イーストプロビデンスが町制を布いたとき、数百名に過ぎない住人がその海岸の集落を住処にしていた。白人開拓者はまずワンパノアグ・インディアンからこの地域で甲殻類が豊富に獲れることを学んだ。2世紀以上後でもワナモイセットの海岸を洗っているナラガンセット湾の海には豊富な食用水産資源があった。ハマグリやホンビノスガイ、カキをワナモイセットの住人が獲ってプロビデンスで売った。例えばアーノルド・メドベリーは鋤を海岸に持っていて、たくさんのハマグリを獲り始めた。彼はその貝類を荷車に積んで運び、1日の収穫分をプロビデンスで容易に売り捌いた。当時メドベリーやその隣人達は軽蔑的な田舎ものに喩えられる見下した表現で「ハマグリ掘り」と呼ばれていた。

19世紀初期には既に、個人が夏の家を建てることが始まっており、村の人口は2倍の500人ないし600人になった。この時期にシーダー・グローブ、ルイス・ステーション、チムニー・コーナーズ、ペックス・コーナー、プレザント・ブラフス、サビンズ・ポイント、シャーマンズ・ステーションおよびポマムといった地区が発展した。ポマム・ハウスのような新しいリゾート施設が建設された。多くの道路は街路樹や家屋で縁取られ、キリスト教会が立ち、図書館が建設され、1878年にはナラガンセット・エンジン会社が設立された。この頃には住民はもはや「ハマグリ掘り」ではなく、町の住人と見なされた。多くの経済活動が行われる中で、チャールズ・I・D・ルーフがリバーサイドに来た。彼はニューヨークの家具商の木彫り師であり、余暇の時間を地下室で趣味の木馬を彫って過ごした。彼は何年も懸命に働いた後で、蒸気駆動の回転木馬を作り上げ、それをクレセント公園に売った。彼がその回転木馬を動かし、夏のレクリエーション地区を設計した。1900年代初期までにニューイングランドの人々はクレセント公園を地域でもトップクラスの遊園地と見なすようになっていた。ルーフは夢のある事業を完成させ、その死後も彼の家族がクレセント公園の運営を継続した。


  1. ^ Quickfacts.census.gov”. 2023年8月24日閲覧。
  2. ^ US Gazetteer files: 2010, 2000, and 1990, United States Census Bureau, (2011-02-12), http://www.census.gov/geo/www/gazetteer/gazette.html 2011年4月23日閲覧。 
  3. ^ East Providence | Rhode Island news | projo.com | The Providence Journal
  4. ^ East Providence Waterfront Commission
  5. ^ Who Was Who in America, Historical Volume, 1607-1896. Chicago: Marquis Who's Who. (1963) 





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