Thomas Cocklynとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > Thomas Cocklynの意味・解説 

トマス・コクリン

(Thomas Cocklyn から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 06:29 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

トマス・コクリン(Thomas Cocklyn、 生没年不明)は、カリブ海およびアフリカで活動していた海賊。主にハウエル・デイヴィスオリビエ・ルバスールなどとの航海で知られる。

経歴

コクリンは恐らくニュープロビデンス島ナッソー海賊共和国の一員であったと思われる。『海賊史』の著者チャールズ・ジョンソンによれば、コクリンは1718年にバハマ総督のウッズ・ロジャーズに投降した海賊の1人であった[1]1719年4月、コクリンは海賊ウィリアム・ムーディ船長のライジング・サン号に乗り組んでいたが、反乱を起こして船を乗っ取った[2][3]。コクリンがムーディに反旗を翻したのはムーディの「紳士然」とした態度が原因だったとされる[2]

コクリンの一味はシエラレオネでハウエル・デイヴィスとオリビエ・ルバスールの海賊同盟と出会った[4]。コクリンもこれに加わったが、当時一味の捕虜になっていたウィリアム・スネルグレイブはコクリンの部下たちから乱暴を受け、デイヴィスはこの行為を非難していたという[5]。コクリンはスネルグレイブの船を奪い、これをウィンダム・ギャレー(ジェームズ・ステュアートの支持者であるウィンダム男爵にちなんだと思われる)と改名した[6]。海賊たちはシエラレオネの砦を攻撃し、港に寄港してきた船を拿捕するなどして7週間ほど過ごしたが、やがて意見の不一致によって不和が生じてしまった[7]。これを受けてデイヴィスは紳士的に別れようと提案し、一同は解散することになった[7]

後年、おそらくは1720年頃、コクリンはマダガスカルジョン・テイラーと活動していた。テイラーは自身の海賊船長であったエドワード・イングランドモーリシャス島に置き去りにした後、ルバスールとも行動を共にした。チャールズ・ジョンソンはコクリンが絞首刑で死んだと報告している[1]

海賊旗

コクリンのものとされる海賊旗

脚注

  1. ^ a b ジョンソン P39
  2. ^ a b レディカー P66
  3. ^ レディカー P196
  4. ^ レディカー P115
  5. ^ レディカー P116
  6. ^ Fox, E.T. (December 2010). “Jacobitism and the "Golden Age" of Piracy, 1715–1725”. International Journal of Maritime History 22 (2): 277–303. doi:10.1177/084387141002200212. 
  7. ^ a b ジョンソン P250

参考資料

  • チャールズ・ジョンソン(著)、朝比奈一郎(訳)、『海賊列伝(上)』2012年2月、中公文庫
  • マーカス・レディカー(著)、和田光弘・小島崇・森丈夫・笠井俊和(訳)、『海賊たちの黄金時代:アトランティック・ヒストリーの世界』2014年8月、ミネルヴァ書房



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  Thomas Cocklynのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「Thomas Cocklyn」の関連用語

1
14% |||||

Thomas Cocklynのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



Thomas Cocklynのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのトマス・コクリン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS