無限・MF308
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無限・MF308(むげんMFさんまるはち)は、レーシングエンジンビルダーの無限(現・M-TEC)が製作したF3000用エンジン。主に全日本F3000選手権とフォーミュラ・ニッポンで使用された。MF308とは「M ugenのF ormula用3 .0 L 8 気筒エンジン」の意味である。
性能・主要諸元
歴史
MF308誕生まで
F2用エンジン
1980年6月、ホンダは第2期F1参戦の準備段階として、ヨーロッパF2選手権でラルトチームにV型6気筒2.0Lエンジン「ホンダ・RA260E」のワークス供給を開始した。 (この時のホンダF2エンジン開発チームリーダー川本信彦と、ラルト代表ロン・トーラナックは、1966年にブラバム・ホンダでヨーロッパF2選手権を制した旧知の仲だった。)
1981年夏、ホンダはラルトの紹介でホンダ・RA260Eをイギリスのレーシングエンジンビルダーであるエンジン・デベロップメント社(ジャッド)のファクトリーに持ち込んだ[1][2]。(ジャッド社の代表ジョン・ジャッドも、1966年当時はブラバムに在籍しており、川本信彦と面識があった。)ジャッドがエンジンに効果的な改良を行ったことで、ラルト・ホンダのジェフ・リースは1981年のヨーロッパF2選手権で総合優勝を果たした。この改良エンジンは1981年の全日本F2選手権にも終盤から投入され、中嶋悟のシリーズ総合優勝を後押しした。
1982年、この年よりホンダはヨーロッパF2選手権におけるRA260Eのメンテナンスとリビルドをジャッドに任せる。 また、同じ1982年から、全日本F2選手権に供給されるRA260Eのメンテナンスとリビルドは無限に任されることになった。RA260Eを無限とジャッドに任せることにより、ホンダは本来の目的であるF1用エンジンの開発に集中できるようになった。
ジャッドチューンのRA260Eは1983年のヨーロッパF2選手権、1984年のヨーロッパF2選手権を連覇した。また、無限チューンのRA260Eは1982年 - 1986年の全日本F2選手権を5連覇した。この成功により、『ホンダが主体となって2 - 3年間参戦したのち無限とジャッドに引き継ぎ、ホンダは次の段階に進む』というパターンは、ホンダの第2期F1参戦において繰り返し採用されるようになる。
インディ用エンジン
1982年、ジャッドはインディカー用のフォード・コスワース・DFXエンジンのメンテナンスとリビルドも請け負っていた。これはジャッド社のオーナージャック・ブラバムの長男でインディに参戦していたジェフ・ブラバムをサポートするためであった。ジャッドはDFXエンジンのパフォーマンスに不満があり、改良案をコスワースに提案していた。しかし事実上のワンメイク状態だったこともあり、コスワースはDFXエンジンの改良に消極的であった。
同じ1982年に、上述のようにジャッドはホンダからヨーロッパF2選手権用のRA260Eのメンテナンスとリビルドも担当するようになった。ホンダはジャッドの改良案を受け入れたので、RA260Eのパフォーマンスは向上していった。
そしてジャッドは、V型8気筒2.65Lのコスワース・DFXとV型6気筒2Lのホンダ・RA260Eが、どちらも1気筒あたりの排気量が0.33Lであることに気づいた。改良に消極的なコスワース、積極的なホンダ。ジャッドの気持ちはホンダに傾いた。そして思い切ってホンダに、RA260Eに2気筒足してV型8気筒2.65Lのインディ用エンジンを開発してはどうかと提案するのである。
1983年、ホンダはジャッドの提案を採用し、インディカー用のV型8気筒2.65Lターボエンジンの共同開発契約を結ぶ。 またこの時期に、ラルトもインディ用シャーシの開発を表明していた。このため、ホンダ、ラルト、ジャッド、そしてジャック&ジェフ・ブラバムが共同でインディ参戦を目指していると噂された。
1985年2月、ラルトのロン・トーラナックは、1985年の半ばまでにインディ用シャーシを製造し、インディのシーズン終盤にスポット参戦したいと述べた[3]。ただしエンジンは噂になっているホンダ製ではなく、コスワース・DFXを発注済だと述べている。
1985年3月、インディ用エンジン(ホンダ・ターボチャージャー・インディV8エンジン)の1号機が完成し、ダイナモテストが行われた。しかし、これと前後してホンダはF1活動に集中するため『インディカー参戦は無い』という理由でジャッドとの契約を打ち切り、代わりにそのエンジンに関する権利を全てジャッドに譲った。このエンジンが「ジャッド・AV」である。
同1985年、ラルトは、インディ用シャーシの開発を延期し、インディ参戦を事実上断念した。それでもジャッドはあきらめずに1986年 - 1991年にジャッド・AVエンジンをインディカーシリーズに供給し、1988年に貴重な1勝を挙げている。
F3000用エンジン
1984年、ヨーロッパF2選手権の大多数のチームにエンジンを 供給していたBMWが年内での撤退を表明した。これによりヨーロッパF2選手権は開催できなくなり、翌1985年からF1で余剰となっていたフォード・コスワース・DFVエンジンを活用した国際F3000選手権へと移行することになった。
ラルトは国際F3000選手権への参戦を表明し、F3000用シャーシの開発を開始した。また、1986年シーズンからF3000用シャーシを市販することも表明した。一方のホンダは、F3000用エンジンを開発するかどうかをすぐに明らかにはしなかった。 このため、ラルトはジャッドチューンのDFVを使用して[4]、1985年の国際F3000選手権に参戦した。 DFVの名チューナーであったジャッドは、自身の持つDFVについてのノウハウとホンダの持つ技術資産・資金力があれば名機DFVに勝てるチャンスがあると考えた。RA260Eの実績でホンダ上層部の信頼を得ていたジャッドは、F3000用エンジンの共同開発契約をホンダと結ぶことに成功する。この結果「ジャッド・AV」のストロークを伸ばして3.0Lにした「ジャッド・BV」が誕生した。
1986年、「ホンダ・RA386E」と改称された「ジャッド・BV」は12基が製造され[1]、ラルト製シャーシに搭載されて国際F3000選手権にデビューする。開幕戦でラルトRT20・ホンダのステアリングを握ったのはジョン・ニールセンと中嶋悟であった。
1987年、「ホンダ・RA386E」は本田技術研究所(和光)で改良が加えられ「ホンダ・RA387E」となる。この年は国際F3000選手権に加えて、全日本F2選手権から移行した全日本F3000選手権にも供給される。 F1にステップアップした中嶋悟からホンダのエースドライバーの座を引き継いだ星野一義が、全日本F3000選手権の初代チャンピオンとなった。
MF308誕生
1987年9月4日、ホンダはF1イタリアグランプリ会場のモンツァ・サーキットにおいて記者会見とプレスリリースを行い、「RA387E」が「完成の域に達した」として、1988年より無限とジャッドがそれぞれ独自に「RA387E」を改良し、カスタマー供給すると発表した[5]。
全日本F2選手権時代、ハートやBMWエンジンに圧勝していたホンダはエンジン供給枠を少数に制限していた。これに対してヤマハは希望者全てにエンジンを供給していたため、ホンダは非難を受けることもあった。またヨーロッパF2選手権においても、ホンダワークスの1 - 2チームが勝利を独占し、カスタマー供給のBMWが撤退を表明したことでシリーズ存続が困難になったため、「ホンダは自分だけ勝てれば選手権がつぶれても良いのか」と非難されていた。
この時の反省から、ホンダのプレスリリースには「広くモータースポーツを支える目的」の文言が入れられ、エンジンの開発が一段落した時点で供給先を広げる方針が採られたのである。 「ホンダ・RA387E」は、日本では「日本のコスワースを目指したい」としていた無限に委ねられ「無限・MF308」となる。一方、ヨーロッパではジャッドに委ねられ再び「ジャッド・BV」となった。 「無限・MF308」と「ジャッド・BV」はどちらも仕様はRA387Eとほぼ同一とされていた。しかしジャッド社代表のジョン・ジャッドは、MF308を「無限独自のバージョン」と呼んでおり[6]、ジャッド側には反映されなかった改良がMF308に加えられていたこと示唆している。
参戦開始
1988年、全日本F3000選手権へ供給が開始され、開幕戦で星野一義のドライブによりデビューウィンを飾る。この年の戦績は全8戦中5勝。
1989年からは国際F3000選手権にも供給され、EJRのジャン・アレジによってチャンピオンエンジンになった。
国際F3000では1990年もDAMSのエリック・コマスがチャンピオンを獲得したほか、ランキングトップ10のうち8人がMF308エンジンを使用していた。1991年はクリスチャン・フィッティパルディをチャンピオンにさせた。1992年シーズン終了をもって国際F3000から撤退する。
MF308引退まで
1988年に供給開始されたMF308は東名エンジン、尾川自動車ら国内のエンジンチューナの手により各チームにデリバリーされる。メンテナンスとチューンもそれぞれのチューナー毎に行われていた。また無限自身も先行開発のためにチューナーとして参加していた。1988年にはコスワース・ヤマハOX77、1989年からはフォード・コスワース・DFVエンジン(どちらもケン・マツウラレーシングサービスチューン)と争う。前述の通り国際F3000へも供給されるが、1992年に供給を終了した後、1996年にワンメイク制が導入され「ジャッド・KV」(供給はザイテック)が採用されたため供給再開の可能性も消滅した。
全日本F3000では1991年と1993年にケン・マツウラレーシングサービスのDFVにチャンピオンエンジンの座を奪われる。
1994年、全日本F3000選手権でMF308が10戦全勝。以後、フォーミュラ・ニッポン移行後の2005年まで勝利を独占する。
1996年、全日本F3000選手権が全日本選手権フォーミュラ・ニッポンと改称。この年からケン・マツウラレーシングサービスがMF308のデリバリーを開始する。
1998年からは事実上のワンメイクとなる。
2005年、シリンダーブロックの鋳型の消耗が激しく、今後長期に渡る供給が困難になる可能性があることを理由にフォーミュラ・ニッポンへの供給を終了。
なおこの間、無限自身や各チューナーにより絶え間ない改良が加えられており、基本性能に関わる部分は無限が開発・テストを行ない、その他はチューナー毎に改良していた。中にはボアを88mmにしてショートストローク化したものも存在し、最終戦まで使用されている。最終的に最高出力は約500PS、最大トルク約42kg·mまで高められた。他にお蔵入りとなったものとして、規則で禁止された可変管長給気システム[7]やバタフライ式スロットル等も試されている。無限がF1活動を行っていた時期にはMF308を使っての先行開発も行われている。
主な戦績
- 国際F3000選手権(1989年 - 1992年):41戦20勝
- 全日本F3000選手権(1987年 - 1995年):74戦63勝
- グランチャンピオン・シリーズ(1988年 - 1989年):11戦11勝
- イギリスF3000選手権(1991年 - 1992年、1994年):28戦0勝
- 全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(1996年 - 2005年):98戦98勝
MF308の特徴
MF308は、DOHCながらロッカーアームを介して吸排気バルブを作動させる方式を採用していた。通常DOHCエンジンはカムシャフトがバルブを直接押す「直押し」が主流で、MF308はレース用エンジンとしては極めて珍しいと言える。ロッカーアームはカムシャフトのプロファイルに関係なくバルブリフト量を決定することができるため、回転数を9,000rpmに制限されているF3000の規定ではかえって好都合だったようである。しかし反面シリンダーヘッドが大きくなり、フォーミュラーカーの車体後半部分を支える構造体となることを考えると剛性不足になりがちであった。
脚注
- 1 2 https://www.motorsport.com/f1/news/how-to-be-an-ace-engineer-engine-designer-john-judd/10554927/ motorsport.com「How to be an ace engineer: Engine designer John Judd」
- ↑ https://www.jsae.or.jp/files_publish/page/341/motorsports_archives08.pdf 公益社団法人 自動車技術会 モータースポーツアーカイブ第8号 市田勝已 「第2期ホンダF1の 栄光を支えた最強エンジン誕生の舞台裏」
- ↑ Autosport誌1985年2月14日号
- ↑ https://www.evropublishing.com/pages/extract-f3000 エブロ・パブリッシング「EXTRACT, F3000」
- ↑ https://global.honda/content/dam/site/global-jp/news-new/cq_img/1987/09/c870904.pdf 昭和62年 9月 4日 本田技研工業株式会社 "'88年度ホンダF-1、F3000レース体制について'’
- ↑ 三栄ムック「GP Car Story Vol.06 March 881、「ジョン・ジャッドの記憶と半生」P38–41」
- ↑ 回転数に応じて給気ファンネルの長さを変えるシステム
参考文献
- 大串信、「まぼろしのINDY計画(後編)」、『Racing On』No.390、株式会社イデア、2005年。
- Kojiro Ishii、「惜別のとき 無限MF308」、『Racing On』No.399、株式会社イデア、2006年。
外部リンク
- 無限・MF308のページへのリンク