EC-121 (航空機)とは? わかりやすく解説

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EC-121 (航空機)

(EC-121 から転送)

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EC-121 ウォーニングスター
EC-121 Warning Star

EC-121T ウォーニングスター

EC-121は、アメリカ合衆国ロッキード社が開発・製造していた早期警戒機電子偵察機である。愛称ウォーニングスター: Warning Star)。1950年代アメリカ海軍アメリカ空軍で運用された。

ロッキード L-1049 スーパーコンステレーションの軍用型は、遠距離早期警戒線を補完する空中早期警戒システムとして使用され、胴体上部の垂直ドームと胴体下部の水平ドームの2つの大型レドームを備えていた。これは、アメリカ海軍で使用されていたTBM-3Wの後継機となった。EC-121の一部は、信号情報収集にも使用された。EC-121は1954年に導入され、1978年に段階的に退役したが、特別に改修された電子戦機1機は1982年までアメリカ海軍で運用されていた。

アメリカ海軍が最初に調達したバージョンは、WV-1(PO-1W)、WV-2(PO-2W)、WV-3と命名された。アメリカ空軍のウォーニングスターは、ベトナム戦争中に電子センサー監視機として、またE-3 セントリー早期警戒管制機の前身として活躍した。アメリカ空軍の搭乗員は、民間のコンステレーションの愛称である「コニー(Connie)」を用い、アメリカ海軍の搭乗員は、WVという形式名称から「ウィリー・ビクター(Willie Victor)」という愛称を用いた。

開発

1943年以来、ロッキード コンステレーションC-69としてアメリカ陸軍航空隊で運用されていた。アメリカ海軍によるコンステレーションの哨戒任務および空中早期警戒任務への転用は、アメリカ海軍がロッキード L-749 コンステレーション2機を取得した1949年に初めて検討がなされた。1949年6月9日に初飛行したPO-1W1952年WV-1に改称)は、胴体の上下の巨大なレドーム内に大型の長距離レーダーを搭載していた。レドームは側面面積が大きかったため、PO-1Wの垂直尾翼を大型化する必要があった。PO-1Wが航空機に大型レーダーを搭載して運用できることを証明したため、アメリカ海軍はロッキード L-1049 スーパーコンステレーションをベースにしたPO-2WWV-2)を発注した。WV-1は1958年から1959年にかけて連邦航空局に移管された[1][2]

WV-2/EC-121Dは当初、機体上部にAN/APS-45高度測定レーダー、機体下部にAN/APS-20捜索レーダーを装備していた。これらは後にAN/APS-103およびAN/APS-95レーダーに更新されたが、同時に更新されたわけではなかった[3]。搭乗員は通常18名で、士官6名(操縦士2名、航法士2名、兵器管制官2名)と下士官12名(航空機関士2名、無線通信士1名、整備班長2名、レーダー操作員5名、レーダー技術員2名)であった[4]。しかし、1969年北朝鮮がアメリカ海軍のEC-121を撃墜した際には、31名の搭乗員が搭乗していた[5]

ロッキード L-1049 スーパーコンステレーションをベースにしたPO-2Wが合計142機発注され、1953年に納入が開始された。PO-2Wは、1954年にWV-2に改称された。1962年国防総省内で航空機の名称が標準化されたことにより、WV-2はEC-121Kとなった。これらのうち13機がWV-2Q電子情報収集(ELINT)機に改修され(1962年EC-121Mとなった)、9機がWV-3気象観測機に改修された(1962年WC-121Nとなった)[6]。EC-121Kは、ジョージア州のグリンコ海軍航空基地に配属されていた第86訓練飛行隊(VT-86)によっても運用され、EC-121とE-2 ホークアイの両方を操縦する海軍航空士官候補生の訓練に使用された。グリンコ海軍航空基地の閉鎖に伴い、VT-86は1973年フロリダ州ペンサコーラ海軍航空基地に移管され、同飛行隊最後のEC-121もペンサコーラ海軍航空基地に移送された。後に、国立海軍航空博物館の所蔵品として保管され、現在も当該博物館に残っている[7]。1機がNC-121Kとなり、フロリダ州のキーウェスト海軍航空基地の第33戦術電子戦飛行隊(VAQ-33)に配属された電子戦機となった。この機体は最後まで運用していたEC-121であり、1982年6月25日まで飛行していた[8]

アメリカ空軍は、1953年10月に海軍との契約から転用された機体に始まり、同じくL-1049をベースにしたRC-121C 10機とEC-121Dウォーニングスター74機を受領した[9]。10機のRC-121Cは練習機となり、TC-121Cと命名された。1966年から1969年の間に、退役したアメリカ海軍のEC-121 30機がアメリカ空軍に移管され、センサー監視機としてEC-121Rに改修された。74機のEC-121Dのうち、42機は1962年からEC-121Hに更新され、さらに1969年には残りのEC-121Dのうち15機とEC-121Hのうち7機が最終運用型であるEC-121Tに更新され、1972年東南アジアで早期警戒管制機の試作機として運用された[6]。5機のEC-121Dは心理戦の作戦用の放送機に改修され、EC-130 コマンド・ソロの前身となった[10]

運用

アメリカ海軍

1957年、VW-15所属のBARLANT WV-2がニューファンドランド沖のUSSセルストロム上空を飛行した。
アメリカ海軍最後の「コンステレーション」は、1982年4月に退役のためデビスモンサン空軍基地へ向かう最後の飛行を行った。VAQ-33(GD 12)NC-121K(機体番号141292)。

1962年にEC-121に改称されたWV-2は、1954年から1965年まで、北アメリカ大陸の両海岸沖にそれぞれ配置された2つの「バリア」部隊で運用された。バリア部隊は、レーダー駆逐艦・護衛艦がそれぞれ配置された5つの水上哨戒ステーションと、高度1,000 - 4,000 m(3,000 - 12,000 ft)で6 - 20時間にわたる任務で哨戒線を哨戒するWV-2/EC-121の航空団で構成されていた。その目的は、遠距離早期警戒線の延長として、ソ連からの爆撃機の奇襲やミサイル攻撃に対する早期警戒範囲を拡大することであった[11]

1954年4月、最初のロッキード スーパーコンステレーション(モデル1049C)、WV-2 機体番号128323が、バーバーズポイント海軍航空基地で第1早期警戒飛行隊(VW-1)に受領された。

大西洋バリア(BARLANT)は、メリーランド州パタクセント・リバー海軍航空基地の第13早期警戒飛行隊(VW-13)と第15早期警戒飛行隊(VW-15)から派遣される交代制の2個飛行隊と、ニューファンドランド州のアルジェンティア海軍基地に常駐する第11早期警戒飛行隊(VW-11)で構成されていた。これら飛行隊の任務は、アゾレス諸島への周回飛行と帰還飛行を行うことであった。パタクセント・リバー海軍航空基地には、飛行乗員と整備員の訓練を行うための追加の早期警戒管制訓練部隊も設置されていた。

BARLANTは1956年7月1日に運用を開始し、1965年初頭まで継続的に監視飛行を行った。1961年6月グリーンランドアイスランドおよびイギリス(GIUK)バリア間の接近をカバーするためにバリアが移された。監視時間を延長するために、アルジェンティアからの機体がアイスランドのケフラヴィーク海軍航空基地を経由して配置された[11]

太平洋バリア(BARPAC)は、最初の早期警戒飛行隊の運用部隊である第1早期警戒飛行隊(VW-1)と最初のEC-121K航空機を受領した。第3早期警戒飛行隊が第12、第14、第16早期警戒飛行隊に続いた。1958年1月、VW-1とVW-3はグアムのアガナ海軍航空基地に移転し、VW-1は早期警戒任務を継続し、VW-3の任務は早期警戒と気象観測に分けられた。BARPACは、ハワイ州のバーバーズポイント海軍航空基地に拠点を置く第12早期警戒飛行隊(VW-12)がミッドウェー海軍航空基地にある展開基地から1958年7月1日に運用を開始し、後に第14早期警戒飛行隊(VW-14)と第16早期警戒飛行隊(VW-16)を含むように拡張された。これらの機体の軌道は、アダック島からミッドウェー島付近まで、第7護衛戦隊の艦艇のレーダーピケット基地と重なっていた。通常、すべての前線をカバーするには、常時5機のWV-2/EC-121が必要であった。

ハワイのバリア部隊の作戦は1965年9月までに中止され、EC-121Kの機体は保管された。しかし、VW-1は1972年まで運用を続け、気象観測を行い、トンキン湾の海軍部隊に早期警戒機を供給した。アメリカ海軍のC-121、EC-121、WC-121、NC-121の運用は、他の7つの飛行隊で1975年まで、8つ目の飛行隊で1982年まで続いた。一部のEC-121はベトナムで使用され、アメリカ空軍のEC-121の任務を模倣したが、アメリカ海軍に割り当てられたトンキン湾を周回した。

第1航空偵察飛行隊(VQ-1)と第2航空偵察飛行隊(VQ-2)は、それぞれ日本厚木海軍飛行場スペインロタ海軍基地でEC-121M電子情報収集機を運用していたが、その後EP-3B オライオンとEP-3E アリエスに機種転換した。

第4気象観測飛行隊(VW-4)は、1954年から1975年にかけてハリケーン・ハンターとしてWV-3/WC-121を運用し、主要拠点はフロリダ州のジャクソンビル海軍航空基地に置かれ、前進拠点はプエルトリコルーズベルト・ローズ海軍基地に置かれていた。その太平洋側の対応部隊である第3気象観測飛行隊(VW-3)の台風追跡隊は、太平洋で運用されていた気象観測飛行隊であり、グアムのアガナ海軍航空基地から発進し、1955年から1960年まで台風を追跡していた[11]1960年6月30日、第3気象観測飛行隊(VW-3)は解散し、その航空機(機体番号145シリーズの8機)と搭乗員の多くはVW-1に吸収され、VW-1は早期警戒の名称を維持し、VW-3の気象観測任務と「台風追跡隊」の名称を引き継いだ。VW-4は、後にWP-3A オライオンに移行した。

メリーランド州のパタクセント・リバー海軍航空基地の第8海洋開発飛行隊(VXN-8)もC-121とEC-121を運用しており、RP-3AおよびRP-3D オライオンに置き換えられるまで、海軍研究局の特定のプロジェクト(プロジェクトBIRDSEYE、MAGNET、ASWEPSなど)にこれらの機体を使用していた。VXN-8はさらに4機のNC-121「ブルーイーグル」も運用していた。これらの特別に改修された機体には、ベトナム戦争中に地上局が設置される前に、アメリカとベトナムのテレビおよびラジオ番組を同時に放送するためのテレビおよびラジオ送信装置とスタジオが装備されていた。これらの機体は週7日毎晩飛行し、コンバット!、ハブ・ガン・ウィル・トラベル、ガンスモークなどのアメリカのテレビ番組や、その他の当時の人気番組、さらに各飛行前に録画されたベトナムの番組を放送していた。毎晩、機内のテレビ・スタジオと空軍のニュース・キャスターが、アメリカ国内外の最新ニュースを生中継で放送した。「ブルーイーグル」は1965年から約5年間、サイゴンダナンの空軍基地を拠点として活動した。

ロードアイランド州のクォンセットポイント海軍航空基地に拠点を置く第6航空開発飛行隊(VX-6)は、 LC-130F ハーキュリーズに置き換えられるまで、アメリカ合衆国南極プログラムの作戦を支援するために、C-121Jに改称されたR7V航空機も運用していた。

EC-121は、ジョージア州のグリンコ海軍航空基地の第86訓練飛行隊(VT-86)によって、E-2 ホークアイの操縦を目指す海軍航空士官候補生の訓練に使用されたほか、バージニア州ノーフォーク海軍基地の艦隊電子戦システム群(FEWSG)所属の第33戦術電子戦飛行隊(VAQ-33)によっても運用された。その後、飛行隊の本拠地変更に伴い、フロリダ州のキーウェスト海軍航空基地に移転した。1982年6月25日に退役したVAQ-33のNC-121K(機体番号141292)は、最後のNC-121Kであり、アメリカ海軍が運用した同型機の最後の機体であった。

アメリカ空軍

アメリカ空軍は1954年から1978年にかけてEC-121を運用し、最大運用時には3個航空団、縮小運用時には3個独立飛行隊が運用された。ベトナム戦争までは、その主な任務は、アメリカ本土から480 km(300 mi)沖合の「連続バリア」と呼ばれる軌道を飛行することで、太平洋と大西洋のバリアを補完する早期警戒レーダーのカバー範囲を提供することであった。カバー範囲の軌道は、地上配備の早期警戒レーダーの軌道と重なっていた。

第552空中早期警戒管制航空団所属のEC-121D。マクレラン空軍基地。

EC-121Cの初期配備は、マサチューセッツ州のオーティス空軍基地に拠点を置く第551早期警戒管制航空団から始まった。1954年12月21日に運用を開始した第551早期警戒管制航空団は、その後EC-121Dに機種転換し、そして後にEC-121Hへと機種転換していった。

その太平洋側の対応部隊は、カリフォルニア州のマクレラン空軍基地に拠点を置く第552早期警戒管制航空団(AEWCW)で、1955年7月1日に運用を開始した。1962年キューバ危機後、第552早期警戒管制航空団は、フロリダ州のマッコイ空軍基地に拠点を置く第966早期警戒管制飛行隊の管理も担当した。第966早期警戒管制飛行隊は、キューバ領空での活動監視とゴールドディガー任務(U-2偵察任務の連続追跡)の飛行という二重の任務を担っていた[12]

EC-121を運用した3番目の航空団は、1967年にベトナム戦争で編成され、1970年に解隊されるまでタイに拠点を置いていた第553偵察航空団であった(下記のバットキャットを参照)。1966年、ロッキード社は、第553偵察航空団が遂行する特殊偵察任務のために、元アメリカ海軍のスーパーコンステレーション30機(EC-121P/WV-3が2機、EC-121K/WV-2が28機)をEC-121Rに改修した。これらの機体は、1967年中に納入された。第553偵察航空団は、ベトナムの陸上および沿岸、ラオスカンボジア上空を飛行し、低出力信号の監視と再送信を行った。通常、それらは8時間交代でホーチミン・ルートを周回していた。EC-121は運用コストが高く、大勢の搭乗員を敵の攻撃にさらすため、1970年12月に、はるかに小型の(そして最終的には無人ドローンとなる)QU-22 ペイブイーグルセンサー監視機に置き換えられた[13]

第551早期警戒管制航空団は1969年に解隊され、第552航空団は1971年に1個飛行隊に削減された。1974年7月、第552早期警戒管制航空団は1個飛行隊に縮小されたため、アメリカ空軍は第552早期警戒管制航空団を第552早期警戒管制群に改称した。同群は1976年4月に解隊された。

1970年代後半にアメリカ空軍がE-3 セントリーの配備準備を進める中、1975年末までにEC-121の運用を段階的に終了していった。残りのEC-121はすべて空軍予備役に移管され、1976年初頭にフロリダ州のホームステッド空軍基地で第79早期警戒管制飛行隊が編成された。現役部隊は引き続き24時間態勢でEC-121を運用するための人員を提供し、第20防空飛行隊第1分遣隊をホームステッド空軍基地に派遣し、AFRES所有の機体を操縦する現役搭乗員として配置した。キューバ海域の監視に加え、これらの最後のウォーニングスターはケフラヴィーク海軍航空基地からも運用された。最終的に、EC-121の運用は1978年9月に終了した。第1分遣隊は解散し、第79早期警戒管制飛行隊は1978年10月1日に戦闘飛行隊に改称された。

1967年、5機のEC-121がペンシルベニア空軍州兵第193戦術電子戦飛行隊で運用開始され、コロネット・ソロ(Coronet Solo)計画の下で心理作戦任務を担当した。1970年7月から1971年1月にかけて、コマンドー・バズ(Commando Buzz)という名称でタイのコラート王立タイ空軍基地に30日から90日間の臨時任務で交代していた[10]

ベトナム戦争

EC-121は、1965年4月16日から1974年6月1日までの間、東南アジアで広く使用され、特にローリング・サンダー作戦ラインバッカー/ラインバッカーII作戦を支援し、MiG戦闘機と交戦するアメリカ空軍の戦闘機部隊にレーダー早期警戒と限定的な空中管制を提供した[4][14]。トンキン湾上空、後にラオス上空を周回飛行し、早期警戒管制機の先駆けとなった。アメリカ海軍は、1965年から1972年まで、ブルーイーグル部隊で派生型のNC-121を使用した。ブルーイーグルはテレビとラジオの放送機であった。ブルーイーグルはパタクセント・リバー海軍航空基地に拠点を置き、海洋開発飛行隊(VXN-8)の一部であった。

ビッグ・アイ

第552空中早期警戒管制航空団の部隊章。
アメリカ空軍EC-121D/Tのオペレーターたち。

ローリング・サンダー作戦開始時、北ベトナム軍は、妨害が困難なシステムを用い、高度1,500 m(5,000 ft)以上を飛行するアメリカ軍の攻撃機のほとんどをベトナム国内のほぼどこでも探知できるレーダー網を保有している点で優位に立っていた。アメリカ軍はトンキン湾にレーダー艦(クラウン)を配備し、タイのナコン・パノム空軍基地に地上レーダー・サイトを設置することで対抗したが、どちらのシステムも見通し線方式であり、探知範囲にギャップがあった。

覆域を拡大するため、第7空軍は空中レーダー支援を要請し、防空軍(1968年に航空宇宙防衛軍に改称)はビッグ・アイ任務部隊(Big Eye Task Force)を編成するよう指示を受けた。マクレラン空軍基地の第552早期警戒管制航空団のEC-121D 5機と支援要員100名が台湾台南空軍基地に派遣され、EC-121のうち4機は南ベトナムのサイゴン近郊にあるタンソンニャット空軍基地の前線作戦拠点に送られた[15]

EC-121は海上を飛行する航空機の探知用に設計されていたため、グラウンド・クラッター(山などの特徴的な地形からの不要な信号反射)がレーダー画像に干渉を引き起こした。しかし、搭乗員はキューバ上空でソ連の航空機を追跡することに経験があり、海水面より15 m(50 ft)から91 m(300 ft)の高度で飛行するEC-121が、底部に取り付けられたAN/APS-95捜索レーダーからの信号を水面に反射させ、中高度で最大240 km(150 mi)の距離の航空機を探知できる技術を開発していた。2機1組で運用され、1機目のビッグ・アイEC-121は、北緯19度25分、東経107度25分を中心とする、海岸から48 km(約30 mi)沖合で80 km(50 mi)のレース・トラック・パターン(アルファ軌道)を飛行した。 2機目は、アルファ軌道を飛行するEC-121の予備機として、海岸からさらに離れた高度3,000 m(10,000 ft)のブラボー軌道を飛行した[4]

これにより、ハノイ市街地とフックイエンのMiG戦闘機の主要基地をカバーするのに十分な、160 km(100 mi)の実用的な探知範囲が確保された。しかし、この配置の大きな欠点は、ほとんどのMiG戦闘機との接触がビッグ・アイEC-121のAN/APS-45高度測定レーダーの110 km(70 mi)の範囲外であったため、このデータをアメリカ空軍の攻撃部隊に提供できなかったことである。さらに、EC-121Dのシステムの技術的な欠陥により、戦闘機の迎撃を制御できないか、攻撃を受けている特定のフライトを識別することができなかった[16]

タンソンニャット空軍基地からの任務は1965年4月21日に始まり、コールサインは「イーサン・アルファ」と「イーサン・ブラボー」が標準となった。ダナン空軍基地で燃料補給後、イーサン・アルファは波の頂上をかすめるように軌道ステーションに進入し、そこで5時間滞在した。MiG戦闘機による迎撃の脅威があったため、EC-121はF-104 スターファイターMiGCAPによって護衛されていた。何らかの理由でMiGCAPがランデブーできなかった場合、EC-121は任務を中止した。EC-121の機内空調システムは、このプロファイルでは事実上役に立たず、電子機器から発生する熱と撃墜される脅威が相まって、特にアルファ軌道任務は非常にストレスの多いものとなった[17]1965年7月10日、EC-121は初の空中管制による迎撃でアメリカ空軍のF-4C戦闘機2機に警告を発し、その結果、MiG-17戦闘機2機を撃墜することに成功した[4]

ビッグ・アイ任務部隊は1967年2月までタンソンニャット空軍基地に駐留していたが、ベトコンによる地上攻撃の脅威が高まったため、タイへ移動した。

カレッジ・アイ

1967年3月、ビッグ・アイ任務部隊はカレッジ・アイ任務部隊(College Eye Task Force, CETF)と改名され、ウボン王立タイ空軍基地に移駐した。航空機とそのシステムの複雑さ、およびそれに必要な大規模な支援グループのため、CETFは比較的小規模なタイの基地では支援できなかった。7月にウドン王立タイ空軍基地に移駐し、1967年10月に最終拠点であるコラート王立タイ空軍基地に移駐した[18]。26機のEC-121のうち7機がオーティス空軍基地から展開し、19日にコラート空軍基地に到着した[19]

1965年4月から1966年初頭にかけて、そして1967年後半から再び、EC-121Dはトンキン湾上空で活動する非武装支援機のためのMiGCAP戦闘機編隊の管制も行った。EC-121Dはまた、攻撃機が任務結果や位置報告をダナン航空管制センターに送信する空中通信中継センターとしても機能し、北ベトナム・ラオス国境沿いの戦闘機護衛機、MiGCAP、C-130ハーキュリーズ・フレアシップ、A-26攻撃機の作戦を指揮し、戦闘捜索救助任務のためのレーダーおよび航法支援を提供し、戦闘機が緊急給油のための空中給油機を捜索するのを支援した。

カレッジ・アイのEC-121Dによるコラート空軍基地からの離陸。

1966年5月中国政府は、北ベトナムのMiG戦闘機を追撃していたF-105 サンダーチーフが中国領内40 km(25 mi)の地点でこれを撃墜したことに対し、正式に抗議した。アメリカの調査委員会は、カレッジ・アイ任務部隊が北ベトナムと中国の国境内の「飛行禁止区域」も監視し、緩衝地帯に近づくアメリカ軍機に警告を発し、アメリカ軍機による国境侵犯を報告する必要があると勧告した[4]。これは湾岸からは実行できなかったため、3番目の軌道である「イーサン・チャーリー」がラオスに設けられた。6月8月のテストの後、8月24日に定期任務が開始された。1日に2回、3つの軌道をサポートするのに十分なEC-121の機体や搭乗員がいなかったため、ラオスの軌道には3日に1回しか飛行できず、その日はイーサン・ブラボー任務が中止された。1966年10月13日以降、チャーリー軌道に毎日飛行することになり、ブラボー軌道は完全に停止された。1967年4月、さらに4機のEC-121が5月29日にタイに配備され、台湾には合計3機、タイには合計6機のカレッジ・アイ任務機が配備された[4]

1967年4月、アメリカ空軍は保有するEC-121全機にQRC-248 IFFトランスポンダ質問装置の搭載を開始した。QRC-248はキューバ空軍が運用するソ連からの輸入機を追跡するために開発された。ソ連から輸出されたMiG戦闘機に搭載されたSRO-2トランスポンダにより、キューバの地上管制迎撃(GCI)レーダーは戦闘機を識別し管制することができた。クイックルックと呼ばれる試験機のEC-121は1967年1月にカレッジ・アイ任務機と共に飛行し、QRC-248の試験を行った結果、北ベトナムのMiG戦闘機も同様のトランスポンダを使用していることが判明した。QRC-248は任務中に拾われた無数のレーダー反射波の中からMiG戦闘機のレーダー反射波を正確に識別し、低高度探知範囲を282 km(175 mi)以上に拡張し、北ベトナムの重要な目標地域をほぼすべてカバーした[20]

5月までに、すべてのカレッジ・アイ任務機にQRC-248が装備された。イーサン・ブラボーの任務は、イーサン・アルファのバックアップから主要なQRC-248視聴任務に変更されたが、カレッジ・アイ任務機は、アメリカ国家安全保障局の「情報源」(QRC-248もその1つ)を保護する安全保障政策に従い、統合参謀本部によってMiG戦闘機のトランスポンダを積極的に尋問することを禁じられていた。そのため、北ベトナムのGCIが航空機をIFFで尋問するのを待つしかなかった。QRC-248は1967年7月に本格的に使用され始めたが、その頃には5月に深刻な損失を被った北ベトナムのMiG戦闘機部隊は戦闘作戦を停止していた[20]

しかし、8月の最終週には、集中的な訓練と戦術の見直しを経て、MiG戦闘機は再びアメリカ軍の攻撃部隊との交戦を開始し、多数の撃墜を記録した。その後、第7空軍は10月6日にQRC-248と積極的に尋問を行うための新しいイーサン・ブラボー任務にあたるEC-121の許可をようやく得た。12月4日までに、その成功はイーサン・アルファ軌道飛行の価値を上回ることになり、イーサン・アルファ軌道飛行は1972年7月まで中止された[4][21]

1968年3月1日、カレッジ・アイ任務機のコールサインはイーサン01、02、03、04に変更された。イーサン03(ラオス軌道)は1968年4月19日、ラオスのホーチミン・ルート沿いのC-130 フレアシップによる飛行とA-26 インベーダーによる夜間阻止任務の「ポジティブ・コントロール」(空中方向指示)を開始した[4]

当該任務部隊は1968年7月に規模が縮小され、EC-121D 4機とリベット・トップ試験機のみとなり、日本の板付空軍基地に別のカレッジ・アイ分遣隊を配備することが可能になった[4]。任務部隊の名称は1968年10月に廃止され、最終的に第552早期警戒管制航空団第1分遣隊(ローテーション)に改称された。EC-121の東南アジアへの配備は、今後使用されないとの見込みから1970年6月に中止された[22]

リベット・トップ

1967年から1968年にかけてコラート空軍基地に駐機していたEC-121K「リベット・トップ」(空軍機体番号57-143184)。これは元々アメリカ海軍のEC-121K(機体番号143184)で、アメリカ空軍に移管され、改修されたものである。

1967年8月、カレッジ・アイ任務部隊がまだウドン王立タイ空軍基地に拠点を置いていたとき、別のプロトタイプEC-121派生型が戦術航空戦センターの第2分遣隊として新しい装備の試験を開始した。リベット・トップ(Rivet Top)として知られる[注 1]、この改修されたEC-121K(後にEC-121Mに再命名)は、カレッジ・アイ任務機の機体に新しく設置されたQRC-248を搭載し、さらに2つのソ連製トランスポンダ、SRO-1とSOD-57を読み取ることができる電子質問装置も搭載していた。その電子機器は既製品ではなくカスタムメイドであった[23]。最も重要な更新は極秘のリベット・ジムの設置であった。これは、MiG戦闘機とGCI管制官間のすべての通信を監視できる4つの音声通信傍受ステーションを運用するベトナム語を話す情報専門家を搭乗員に追加することから成り立っていた。

この利点にもかかわらず、リベット・トップは2つの問題を抱えており、その有効性が低下していた。オペレータは、傍受した会話を特定のMiG戦闘機の飛行と関連付けるためのレーダー・スコープを持っていなかったため、どのアメリカ軍機が攻撃を受けている可能性があるかを特定できなかった。第2に、QRC-248と同様に、リベット・ジムは国家安全保障局のシギント資産であり、その存在に関する知識を保護するためのさらに厳格な規則の対象となっていた。1972年半ばにアメリカ軍機へのリアルタイムでの警告がようやく許可された後も、戦闘機の搭乗員は、警告の発信源を知らされておらず、無線通信の品質が悪く、しばしば故障するEC-121の無線中継機の使用が義務付けられていたため、情報源の信頼性を無視する傾向があった[24]

リベット・トップ試作機は、1967年10月にカレッジ・アイ任務部隊とともにコラート空軍基地に移送された。当初は1968年2月にアメリカ本国へ帰還する予定であったが、その価値から1969年までコラート空軍基地に留まった。試験期間中は毎日任務飛行を行っていたが、1968年3月31日にローリング・サンダー作戦が大幅に縮小された後は、トンキン湾上空で隔日の任務飛行を開始した。リベット・ジムの設置は、1968年5月末までにカレッジ・アイ任務機のEC-121全機に後付けされることになった。

オペレーション・キングピン

新たに東南アジア運用要求62(SEAOR-62)電子機器スイートで改修された2機のEC-121Dは、まだEC-121Tとしては運用されておらず、1970年10月にコラート空軍基地に発注された。実地試験という名目で、追加の搭乗員、もっとも経験豊富な第552早期警戒管制航空団の技術員、および新しい電子機器の保守に必要な機器を搭載したC-121Gが同行した。SEAOR-62パッケージは、デジタル・データ受信機の地上端末と、別の機密空輸で輸送された無線中継機器によってサポートされていた。EC-121Tは11月12日にマクレラン空軍基地からタイに到着した[25]

この配備の目的は、ソンタイ刑務所に収容されているアメリカ軍の捕虜を救出する作戦であるキングピン作戦(Operation Kingpin)を支援するため、リアルタイム入力を備えた統合戦術データ表示(第77任務部隊のE-1B トレーサーに装備されている海軍空中戦術データ・システムと同様)を提供することであった[26]。コラート空軍基地に到着すると、アメリカの空域における排出規制のため、一部の機器は初めて試験され、利用可能なマニュアルとチェックリストは初期の飛行試験のメモのみであった。それでも、両機は11月17日までに運用可能となった[27]

1970年11月20日、コールサイン「フロッグ01」と「フロッグ02」を使用する2機のウォーニングスターが、22時に10分間隔でコラート空軍基地を離陸し、トンキン湾上空の低高度アルファ軌道に就いた。フロッグ02はバックアップ機として待機していた。17名の搭乗員は、空中で救助任務の性質と、MiG戦闘機の警告とアメリカ空軍のF-4 ファントムIIによるCAP迎撃の指示という自分たちの役割について説明を受けた。フロッグ01がより高いブラボー軌道への上昇を開始した際、オイルラインの破裂によりエンジン1基が停止した。当初の計画通り、フロッグ01がダナン空軍基地に緊急着陸したため、フロッグ02が主機となった[28]

新型機器がフロッグ02に搭載されていたが、正常に機能しなかった。ダナン空軍基地の司令部にある地上受信機はデータを受信できず、APX-83 IFFプロセッサは度重なる修理にもかかわらず機体に表示されなかった。機体自身のレーダー・モニターは過剰な電子ノイズに見舞われ、近傍のEKA-3B スカイウォーリアーによる北ベトナムへのレーダー妨害がレーダー技術員の問題解決の妨げとなった。任務を護衛するF-4に誘導情報を提供できないフロッグ02は、その場にとどまり、リベット・トップの音声傍受機能に頼って補助データを提供した[29]

ディスコ

コラート王立タイ空軍基地のEC-121D(空軍機体番号53-0555)。1970年9月

1971年10月、ローリング・サンダー作戦終了後に開設された前線基地から運用されていた北ベトナムのMiG戦闘機は、ラオス南部上空でのB-52 ストラトフォートレス爆撃機の迎撃作戦を開始した。11月20日MiG-21がB-52に空対空ミサイルを発射したが、B-52はフレアを投下して回避した。その結果、第1分遣隊のウォーニングスターはコラート空軍基地に戻り、コールサイン「ディスコ(Disco)」を使用して再びラオス上空を飛行し、レーダー支援を行った[22]。以前のシリーズの代替機である7機のEC-121Tはタイに配備され、QRC-248とリベット・トップの両方の電子機器を搭載していた。

1972年5月10日にラインバッカー作戦が開始された際、ディスコはアメリカ軍が使用する2つの主要なGCIレーダーの1つであったが、無線通信の不備により引き続き制約を受けていた[注 2]。さらに、その低速旋回レーダーはMiG戦闘機との交戦中の戦闘機管制機としての価値を制限し、ラインバッカー作戦中のアメリカ空軍の空襲の規模は、その能力がほぼ飽和状態にまで達していた[31]1968年以降に行われたシステムの改良により、オペレーターはMiG戦闘機の種類を区別できるようになり、MiG戦闘機の色分けシステムが航空作戦の専門用語となった。「レッド・バンディット」(MiG-17)、「ホワイト・バンディット」(MiG-19)、「ブルー・バンディット」(MiG-21)、「ブラック・バンディット」(燃料が少ないMiG)などである[32]

1972年7月6日、2週間のうちに7機のF-4 ファントムIIが撃墜された結果、2番目のディスコ・トラックが開始された。トンキン湾上空の旧アルファ軌道付近を飛行し、ハノイ地域の低高度覆域を向上させることを目的としていた。月末には、ディスコはティーボール管制センターにも統合された。ティーボール管制センターは、非軍事を含むあらゆる情報源から収集された北ベトナムの航空活動に関するすべての信号情報を収集するために設立された極秘システムである。ディスコは警告や管制ベクトルが伝達される経路として使用されたが、ティーボール管制センターが情報を入手してディスコを介して中継するのに遅延が生じ(多くの場合、コールサイン「ルソン」で運用されている信頼性の低い無線中継機KC-135A コンバット・ライトニングを使用)[注 3]、「リアルタイム」での使用価値が相殺され、その存在がアメリカ軍の搭乗員に隠蔽されていたという事実がその信頼性を損なった[注 4]。ティーボール管制センターは直接通信機能を獲得したが、送信障害が頻繁に発生し、苛立たしい思いをすることになった。ディスコは主要なバックアップ管制機として残ったが、直接MiGCAP任務のみを管制し、「ガード(Guard)」周波数を通じて攻撃、チャフ、護衛部隊に情報を提供することしかできなかったため、その有用性は限られていた[34]

1973年8月15日、ディスコのEC-121は最後の戦闘任務を遂行し、1974年6月1日、第1分遣隊は東南アジアから永久に撤退した。1965年から1973年の間に、EC-121は13,921回の戦闘任務を遂行し、98,000時間以上の無事故飛行時間を記録した。また、25機のMiG戦闘機の撃墜を支援し、撃墜されたパイロット80名の救助を支援した。ビッグ・アイ、カレッジ・アイおよびディスコの航空機はいずれも1機も失われなかった[14]

バットキャット

EC-121R バットキャット

ベトナム戦争中、約40機のEC-121が、ホーチミン・ルート沿いの敵部隊の動きを探知するための地上センサーと併用するために、アメリカ海軍のWV-2およびWV-3早期警戒用コンステレーションから改修され、25機がイグルー・ホワイト作戦の一環としてコラート空軍基地に配備された[13]。その結果、EC-121R構成はバットキャット(Batcat)という愛称で呼ばれるようになった[35]。戦争中に2機のバットキャットが失われ、搭乗員22名が死亡した。1機は1969年4月の雷雨の中での離陸事故で、もう1機は1969年9月の着陸事故で喪失し、タイの民間人4名も死亡した。

バットキャットEC-121は、東南アジアで一般的に植生されている樹木を模した迷彩塗装が施されていたが、カレッジ・アイ/ディスコ早期警戒機はそうではなかった。バットキャットの任務は18時間であり、5年間の運用期間中に使用された11の色分けされた軌道のうちの1つで8時間待機した。これらの軌道のうち、3つは南ベトナム上空、6つはラオス上空、1つはカンボジア上空、そしてもう1つはトンキン湾上空であった。

EC-121Rは、1967年10月から1970年12月まで、第553偵察航空団の第553偵察飛行隊と第554偵察飛行隊によって運用され、常時約20機のバットキャットEC-121が配備されていた。航空団は1970年12月に再編成され、第554偵察飛行隊はナコン・パノム空軍基地に移駐し、「ベビーバット(Baby Bats)」の愛称で呼ばれるQU-22センサー監視機を運用した。第553偵察飛行隊は当初11機を保有していたが、その後1年間運用を続け、徐々に機体と搭乗員をアメリカ本国に帰還させた。バットキャットの最後の任務は1971年12月であった。最後に残った管理・支援要員は1972年1月にオーティス空軍基地に戻った。

派生型

1973年のVAQ-33所属のNC-121K。両脇にはF-4B ファントムIIとEA-4F スカイホークが写っている。
回転式ロートドームを備えたWV-2E実験機。

アメリカ海軍仕様

  • WV-1 - 2機の試作機、L-749Aコンステレーション。1952年以前はPO-1Wと命名されていた。
  • EC-121KWV-2) - アメリカ海軍の主力派生型で、1952年以前はPO-2Wと命名されていた。244機が発注され、142機が生産された(残りはアメリカ空軍向け)。
  • JC-121K - EC-121Kの改修機。アメリカ陸軍の航空電子機器試験機として使用された。
  • NC-121K - 特殊任務機として改修された。機体番号不明。
  • YEC-121K - 改修された航空電子機器試験機。1機。
  • EC-121LWV-2E) - WV-2の改修機。AN/APS-70レーダーを搭載した回転式レーダードームの試験機。
  • EC-121MWV-2Q) - WV-2の改良型。ELINT収集型。13機。
  • WC-121N(WV-3) - WV-2の改修機。気象観測型。8機。
  • EC-121P - EC-121Kの改修機。対潜水艦型に改修したもの(機体番号不明)。
  • JEC-121P - アメリカ空軍が使用したEC-121Pは3機。
  • XW2V-1 - アリソンT56-A8ターボプロップエンジン4基、L-1649A スターライナーの翼、防衛用空対空ミサイルなどの新機能を備えた海軍開発案。製造されず、前身機との大きな違いからL-084と命名された[36]

アメリカ空軍仕様

アメリカ空軍初のRC-121C。1955年
アメリカ空軍のRC-121D(機体番号53-0128)とF-104スターファイター。
アリゾナ州デイビスモンサン空軍基地のAMARCにある旧EC-121R バットキャット。
  • RC-121C - アメリカ空軍の初期型。10機生産。
  • JC-121C - C-121Cから改修された2機と、TC-121Cから改修された1機がアビオニクス試験機として使用された。
  • TC-121C - 1962年以前に搭乗員訓練機として改修されたRC-121C。9機。
  • EC-121D - 1953年から1955年にかけて73機がアメリカ空軍の主力派生型として生産された。1機はC-121Cから改修されたものであり、当初はRC-121Dと命名されていた。
  • EC-121D クイックルック - QRC-248 IFFトランスポンダ質問装置用テストベッド。1機。
  • EC-121H - 35機のEC-121D、7機のWV-2が海軍から移管されたもので、1962年にアメリカ空軍で42機が改修された。
  • EC-121J - 電子機器を更新した改修型のアメリカ空軍のEC-121D。2機。
  • EC-121M リベット・トップ - リベット・ジム暗号言語電子機器スイートのEC-121Dテストベッド。1機。(当初はEC-121Kと命名されていた)
  • EC-121Q - アメリカ空軍のゴールドディガー任務向けに電子機器を更新したEC-121D。4機。
  • EC-121R - 1966年から1967年にかけて30機のEC-121K/EC-121Pがアメリカ空軍に移管され、バットキャットセンサー信号プロセッサに改修された。
  • EC-121S - アメリカ空軍のC-121輸送機からペンシルベニア州空軍州兵向けに改修された機体。5機。
  • EC-121T - アメリカ空軍最終型。15機のEC-121Dと7機のEC-121Hの合計22機がT型に改修された。

運用者

アメリカ空軍

現役

  • 第551早期警戒管制航空団 – マサチューセッツ州オーティス空軍基地
    • 第960早期警戒管制飛行隊
    • 第961早期警戒管制飛行隊
    • 第962早期警戒管制飛行隊
  • 第552航空遠征航空団 – カリフォルニア州マクレラン空軍基地
    • 第963早期警戒管制飛行隊
    • 第964早期警戒管制飛行隊
    • 第965早期警戒管制飛行隊
  • 第553偵察航空団 – タイ王国コラート王立タイ空軍基地
    • 第553偵察飛行隊
    • 第554偵察飛行隊
  • 第966早期警戒管制飛行隊 – フロリダ州マッコイ空軍基地
  • 第20防空飛行隊第1分遣隊 – フロリダ州ホームステッド空軍基地

AFRES

  • 第79早期警戒管制飛行隊(AFRES) – フロリダ州ホームステッド空軍基地

ANG

  • 第193飛行隊(ペンシルベニア州空軍州兵) – ペンシルベニア州オルムステッド空軍基地(後にハリスバーグ空軍州兵基地に改称)

アメリカ海軍

VW-4 ハリケーン・ハンターのWC-121N。1967年
  • AEW大西洋航空団 – メリーランド州パタクセント・リバー海軍航空基地
    • VXN-8 – メリーランド州パタクセント・リバー海軍航空基地
    • VW-2(BARLANT) - メリーランド州パタクセント・リバー海軍航空基地
    • VW-4(「ハリケーン・ハンターズ」) – フロリダ州ジャクソンビル海軍航空基地
    • VW-11(BARLANT) – ニューファンドランド州アルジェンティア海軍基地 / メリーランド州パタクセント・リバー海軍航空基地
    • VW-13(BARLANT) – メリーランド州パタクセント・リバー海軍航空基地 /ニューファンドランド島アルジェンティア海軍基地
    • VW-15(BARLANT) – ニューファンドランド州アルジェンティア海軍航空基地 / メリーランド州パタクセント・リバー海軍航空基地
    • AEWTULANT – メリーランド州パタクセント・リバー海軍航空基地
    • 海軍CIC士官学校、後に第86訓練飛行隊(VT-86) – ジョージア州グリンコ海軍航空基地
  • AEW太平洋航空団 – ハワイ州バーバーズポイント海軍航空基地
    • VW-1(「タイフーン・トラッカー」) – グアム・アガナ海軍航空基地
    • VW-3(「タイフーン・チェイサー」) – グアム・アガナ海軍航空基地
    • VW-12(BARPAC) – ハワイ州バーバーズポイント海軍航空基地
    • VW-14(BARPAC) – ハワイ州バーバーズポイント海軍航空基地
    • VW-16(BARPAC) – ハワイ州バーバーズポイント海軍航空基地
    • AewBarsRon 2(サービス/サポート) – ハワイ州バーバーズポイント海軍航空基地
    • MatRon 1(支援) – ハワイ州バーバーズポイント海軍航空基地
    • AewBarRonPac(VW-12、VW-14およびAEWBarRon 2の統合部隊) – ハワイ州バーバーズポイント海軍航空基地
    • VQ-1 – 日本・厚木海軍航空基地
    • VQ-2 – スペイン・ロタ海軍基地
    • VAQ-33 – バージニア州ノーフォーク海軍航空基地 / フロリダ州キーウェスト海軍航空基地
    • VX-6 – ロードアイランド州クオンセットポイント海軍航空基地

事故・事件

1967年4月25日の墜落事故の残骸。回収後、格納庫に保管されている。

合計20機におよぶアメリカ海軍のEC-121が事故で破壊され、113人の搭乗員が死亡した[37]

  • WV-2/EC-121K 15機、WV-2Q/EC-121M 3機、WV-3/WC-121N 2機

もう1機の非武装のEC-121Mが一方的な戦闘で破壊された。1969年4月北朝鮮空軍のMiG-21戦闘機が同国東海岸沖の国際空域でEC-121を撃墜し、搭乗していた31名の乗員全員が死亡した[5]

アメリカ空軍は合計11機のウォーニングスターを事故で喪失し、66名の搭乗員が死亡した[37]

  • RC-121C/TC-121C 2機、RC-121D 2機、EC-121H 3機、EC-121R 3機、EC-121T 1機

第551早期警戒管制航空団のEC-121Hが3機、それぞれ1965年7月11日1966年11月11日1967年4月25日に失われ、合計50名(それぞれ16名、19名、15名)が死亡した。1967年の墜落事故では、航空団司令官のジェームズ・P・ライル大佐も犠牲となった[38]

2件のバットキャットEC-121R墜落事故により、22人が死亡した。

現存する機体

EC-121T
展示中
N4257U(空軍機体番号52-3418)は、カンザス州トピカの戦闘航空博物館に展示されている。
  • 空軍機体番号52-3418 – カンザス州トピカのフォーブス・フィールド(旧フォーブス空軍基地)にある戦闘航空博物館に展示されている。この機体は1954年10月にRC-121Dとしてアメリカ空軍に納入され、1962年にEC-121Dに改称された。その後EC-121Tに改修されたが、上部レドームは取り外されている。
EC-121T(空軍機体番号52-3425)は、コロラド州ピーターソン空軍基地に展示されている。
  • 空軍機体番号52-3425 – コロラド州コロラドスプリングスピーターソン空軍基地にあるピーターソン航空宇宙博物館に展示されている。以前はフロリダ州マッコイ空軍基地の第966早期警戒管制飛行隊に配属されていたが、その後フロリダ州ホームステッド空軍基地の第79早期警戒管制飛行隊に配属された。1978年10月にピーターソン空軍基地に納入された[39]
  • 空軍機体番号53-0548 – カリフォルニア州チノのヤンクス航空博物館に展示されている。ヤンクス航空博物館が修復作業とフェリー飛行のためのFAA書類作成を完了する間、カマリロ空港(旧オックスナード空軍基地)に保管されていた。ヤンクス航空博物館の修復ディレクターのフランク・ライトによる最終的な整備作業には、2012年1月初旬に4番エンジンの再構築が含まれていた。53-0548は、2012年1月14日の午後12時10分にカマリロを出発し、チノまで90分の飛行を行い、そこで静態展示される予定である[40]
  • 空軍機体番号53-0552 – オクラホマ州ティンカー空軍基地に展示中。
  • 空軍機体番号53-0554 – アリゾナ州ツーソンのデイビス・モンサン空軍基地に隣接するピマ航空宇宙博物館に展示されている。
カレッジ・アイEC-121D(空軍機体番号53-0555)。国立アメリカ空軍博物館。
  • 空軍機体番号53-0555 – オハイオ州デイトン近郊のライト・パターソン空軍基地にある国立アメリカ空軍博物館に展示されている。カレッジ・アイEC-121Dは修復され、屋内に展示されている。この機体は機体番号(53-0555)から「トリプル・ニッケル」という愛称で呼ばれていた。1967年10月24日、トンキン湾上空で活動中、レーダーでアメリカ軍の戦闘機を誘導し、北ベトナム空軍の戦闘機MiG-21を撃墜した。これは、空中レーダー機に搭乗した兵器管制官が敵機への攻撃を成功させた初めての事例であった。「トリプル・ニッケル」は1971年にアメリカ空軍博物館に退役した[41]
  • 空軍機体番号52-3417 - カリフォルニア州アトウォーターのキャッスル航空博物館に展示中。
EC-121T
展示中
  • 機体番号137890 - オクラホマ州オクラホマシティティンカー空軍基地にある、アメリカ空軍のE-3 AWACSの運用拠点である第552航空管制航空団本部の外に展示されている。この機体は、空軍機体番号53-0552として塗装された2機のウォーニングスターのうちの1機である。
  • 機体番号141297 – ジョージア州ロビンス空軍基地の航空博物館に展示されている。1987年に展示のために博物館に空輸された[42]
  • 機体番号141309 – カリフォルニア州マクレラン空軍基地跡地にあるカリフォルニア航空宇宙博物館に、空軍機体番号53-0552として展示されている。これは、53-0552として塗装された2機のウォーニングスターのうちの1機である。
  • 機体番号141311 – ミシガン州ベルビルのヤンキー航空博物館で修復待ち。以前はイリノイ州ラントゥールのオクターブ・シャヌート航空宇宙博物館にあった[43][44]
  • 機体番号143221 - フロリダ州ペンサコーラのペンサコーラ海軍航空基地にある国立海軍航空博物館に展示されている。この機体は、1973年にジョージア州グリンコ海軍航空基地の第86訓練飛行隊(VT-86)から飛行可能な状態で取得された。当時、グリンコ海軍航空基地の閉鎖と飛行隊のペンサコーラ海軍航空基地への移転が控えていた。現在は、同博物館のシャーマン飛行場付属施設に展示されている。

仕様(WV-2/EC-121D)

ロッキードRC-121Cウォーニングスターの3面図線画

出典: Willy Victor Lockheed EC-121 Warning Star[45].

諸元

性能

  • 最大速度: 481 km/h (260 kt)
  • 巡航速度: 410 km/h (222 kt)
  • 航続距離: 6,843 km (3,700 nm)
  • 実用上昇限度: 7,620 m (25,000 ft)
  • 上昇率: 292.2 m/min (960 ft/min)


使用されている単位の解説はウィキプロジェクト 航空/物理単位をご覧ください。

脚注

注釈

  1. ビッグ・サファリの「迅速調達」オフィスの管轄下で開発されたプログラムには、「リベット」という単語で始まる2語の識別子が付いている。
  2. もう1つの、そしてより好ましいシステムは、トンキン湾にいたアメリカ海軍の艦船「レッドクラウン」(PIRAZ)であった[30]
  3. ルソン島は友軍のECMシステムによって妨害されていた可能性が高い[33]
  4. ティーボール管制センターは、リベット・トップと同様に、国家安全保障局の資産であり、その存在は、有人爆撃機による核抑止任務における有用性を損なわないように、慎重に隔離されていた。

出典

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  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 Boys. Dean. "College Eye Extract from the CHeco Report." dean-boys.com. Retrieved: 13 March 2009.
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参考文献

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