龍献寺とは? わかりやすく解説

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龍献寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 00:32 UTC 版)

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龍献寺
所在地 京都府京丹後市網野町木津1231
位置 北緯35度39分10.9秒 東経134度59分03.3秒 / 北緯35.653028度 東経134.984250度 / 35.653028; 134.984250座標: 北緯35度39分10.9秒 東経134度59分03.3秒 / 北緯35.653028度 東経134.984250度 / 35.653028; 134.984250
山号 湖秀山
宗派 曹洞宗
創建年 建治2年(1276年
開基 義雲和尚
龍献寺
龍献寺 (京都府)
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龍献寺(りゅうごんじ)は、京都府京丹後市網野町木津にある禅宗曹洞宗の寺院。

歴史

建治2年(1276年)永平寺五世義雲大和尚が離島に大殿堂を建立し、湖秀山龍献寺と号した。丹後国第一の大寺と言われていたと伝わる。

承応元年(1652年)永平寺開山四〇〇回忌の折、龍献寺が末寺三十八ヶ寺とその他十三ヶ寺を勧化をして、茶湯料を献納したとされる。

延宝2年(1674年)に但州長松寺七世より密雲大授和尚が代替地を求め、天和3年(1683年)現在の木津に移転したとされる。

貞享4年(1687年)火災に遭い、元禄5年(1692年)造立を行い、老朽化の為、安永3年(1774年)に新宮を実施し、殿堂が完備。昭和2年(1927年)丹後震災で西側の附属建物は倒壊し、什器類も相当の被害を受けた。

移転の理由

離湖から木津への移転の理由としては以下の二つの説がある。

  • 寛永10年(1633年)に領主京極丹後高広が入府すると「一覧亭」と称する茶屋屋敷を置いたという。ところが子の高国が離湖で魚を捕っては、宴会をするため、寺の僧侶が注意すると高国が激怒し、龍献寺をことごとく焼き壊した為、木津へ逃げたとされる[1]
  • 寛永2年(1625年)に京極高広が宮津に智源寺を創建すると、龍献寺に対して、智源寺末に改宗せよと難題を突き付けられた為、拒否したところ、寺を焼かれた為、木津へ逃げたとされる[2]
離湖に建つ龍献寺跡の石碑

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『丹後思い出散歩あのころへ』中江忠宏、2013年、118頁。
  2. ^ 『丹後思い出散歩あのころへ』中江忠宏、2013年、119頁。


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