逐客令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/06 04:05 UTC 版)
| 現地名 | 逐客令 |
|---|---|
| 日付 | 紀元前237年頃 |
| 場所 | 秦国(戦国時代末期) |
| 関係者 | 秦王政・客卿(諸侯国出身者・他国出身技術者・官僚)など |
| 結果 | 他国出身の客卿に対する追放命令が発せられ、のちに撤回された |
逐客令(ちくきゃくれい、拼音 zhúkèlìng)は、戦国時代末期の中国・秦国において、諸侯国出身の客卿(士・技術者・官吏)を一斉に追放するよう命じた政策・命令である[1]。 紀元前237年頃、韓出身の技術者・鄭国が主導した大規模な灌漑工事が「秦の財力を疲弊させる謀略」であると疑われ、他国出身者に対する不信が高まった[2]。 その結果、秦王政のもとで「外国人を追い出すべきだ」という意見が強まり、追放命令が出されたが、李斯が上奏した『諫逐客書』によって撤回された[3]。 この事件は、秦の国家政策における「外来人材登用と排除」をめぐる象徴的な事例とされる。
背景
戦国時代の秦は、富国強兵を目指して他国出身の賢臣・技術者・外交官を積極的に登用していた[4]。 穆公・孝公・恵王・昭襄王などの時代には、非秦出身の人材が重用され、国家発展に寄与した[5]。 しかし、こうした外来の士(客卿)に対して、「諸侯国の者は秦を衰えさせる」との不信感が国内で広がっていた[6]。 特に韓出身の鄭国が行った工事が「韓の策略」とされ、これが逐客令発令の直接の契機となった[7]。 また、他国出身の官僚の台頭に不満を抱いた王族や保守派官僚が「非秦人排除」を主張した[8]。
内容
逐客令では、秦国内に仕える他国出身の客卿を「一切追い出す(逐之)」とする命令が出された[9]。 命令には「大索,逐客(大規模に捜索して客を逐う)」と記され、非秦籍の学者・技術者・役人たちは国外退去を迫られた[10]。 しかし、客卿であった李斯が『諫逐客書』を上奏し、歴代の秦の成功は他国出身の賢人を登用した結果であると説いたことで、秦王政は命令を撤回した[11]。
意義・評価
この事件は、秦国の人材政策における排外と開放の対立を象徴するものであり、国家の発展における外来人材の役割を再評価させる契機となった[12]。 李斯の『諫逐客書』は、他国の知恵と技術を取り入れることの意義を論じた政治文書として後世に伝わった[13]。 「逐客令」という語は後世に転用され、「歓迎されない客を追い出す命令・施策」を指す一般的な表現としても用いられるようになった[14]。
年表
- 紀元前237年頃 — 秦王政の宮廷で「客を逐う」旨の議論が提出され、逐客令が発令される[15]。
- 同年 — 王により「大索,逐客」との追放命令が実施される[16]。
- 同年 — 李斯が『諫逐客書』を上奏し、命令が撤回される[17]。
関連項目
参考文献
- 葉 文昌「遂客令」関口グローバル研究会『SGRAかわらばん』(2015年)[18]
- “论效果不论动机的《谏逐客书》”,光明網(2022年7月11日)[19]
- “《逐客令》与《諫逐客書》背后的权力博弈”,知乎專栏[20]
- 歴史データベース「世界の歴史まっぷ」[21]
- 歴史街道Web PHP研究所[22]
- ^ 李斯と逐客令
- ^ 秦の国力を疲弊させるための謀略?
- ^ 葉文昌「遂客令」
- ^ 李斯と逐客令
- ^ 李斯と逐客令
- ^ 秦の国力を疲弊させるための謀略?
- ^ 逐客令与《諫逐客書》背后的权力博弈
- ^ 葉文昌「遂客令」
- ^ 逐客令与《諫逐客書》背后的权力博弈
- ^ 李斯と逐客令
- ^ 葉文昌「遂客令」
- ^ 论效果不论动机的《谏逐客书》
- ^ 李斯と逐客令
- ^ 秦の国力を疲弊させるための謀略?
- ^ 李斯と逐客令
- ^ 逐客令与《諫逐客書》背后的权力博弈
- ^ 葉文昌「遂客令」
- ^ 葉文昌「遂客令」
- ^ 论效果不论动机的《谏逐客书》
- ^ 逐客令与《諫逐客書》背后的权力博弈
- ^ 李斯と逐客令
- ^ 秦の国力を疲弊させるための謀略?
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