辛替否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/14 10:04 UTC 版)
辛 替否(しん たいひ、生没年不詳)は、唐代の官僚。字は協時。本貫は京兆府万年県[1]。
経歴
景龍年間、左拾遺となった。ときに中宗が公主府に属官を置き、安楽公主の府が最も官吏が多かった。また駙馬の武崇訓の死後、安楽公主は旧宅を棄てて別に一宅を造り、その豪華なことは度を越していた。さらに仏寺を盛んに造営して、民衆を疲弊させ、濫費のため官庫も空になっていた。替否は上疏してこれらを諫めた。その上疏は中宗に聞き入れられなかった[2][3]。
景雲元年(710年)、睿宗が即位すると、金仙公主と玉真公主のために金仙観と玉真観が造営された。替否は左補闕となり、上疏して時政について述べた。睿宗はその公正実直さを嘉した。ほどなく替否は右台殿中侍御史に転じた。開元年間、官を重ねて潁王府長史となった。天宝初年、死去した。享年は八十数歳であった[4][5]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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