矢野拙斎とは? わかりやすく解説

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矢野拙斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/20 14:35 UTC 版)

矢野 拙斎(やの せっさい、1662年寛文2年)- 1732年2月7日享保17年1月12日))は、江戸時代前期から中期の儒学者。名は義道。通称は理平。

生涯

伊予国西条に於いて生まれる。幼少より学を好み、18歳で京都に上がり、山崎闇斎古学派に心酔し浅見絅斎などと共に学に励んだ。5年の研鑽を積んだ後、江戸に出て以後講説を業とした。30歳のとき、その評判を聞いた将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保に招かれ、綱吉の侍講を務めた。

その後高崎藩主の松平輝貞に400石取りの家臣として招聘されたが、37歳のときに突然悟るところあって野に下り、山中久右衛門という名前に変名し塾を開き教えた[1]。1732年(享保17年)死去。71歳。墓所は品川海晏寺。著作は『児訓集』などがある[2]。子は同じく儒学者の矢野容斎で、医術測量術に長けたが、一生仕官せずに市井で教えたという。

脚注

  1. ^ 愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム 矢野拙斎
  2. ^ コトバンク 矢野拙斎



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