王昔剌とは? わかりやすく解説

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王昔剌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/07 10:00 UTC 版)

王 昔剌(おう シラ、? - 1279年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。保定路の出身。

名前はモンゴル帝国第5代皇帝クビライ・カアンに仕えてシラ・バアトル(昔剌抜都)(lang-mn|Šira Baγatur)という称号を授けられたことに由来する。

生涯

王昔剌はクビライに仕えて勇略あることで知られたことから、シラ・バアトル(昔剌抜都)という称号を与えられた人物であった。第4代皇帝モンケ・カアンの治世中には釣魚山の戦いに加わり、また帝位継承戦争でも活躍したことから、武衛親軍千戸の地位を授けられている[1]

1262年(中統3年)には李璮の乱鎮圧戦に功績があり、1263年(中統4年)春には元帥アジュの命を受けて河南の宿州に駐屯することになった。1269年(至元6年)には虎符を下賜されて海州万戸に昇格となり、塩林山寨攻めで多くの捕虜を得る勝利を収めた。1273年(至元10年)には東川行枢密院同僉に任命され、1278年(至元15年)には夔州の征服に功績があった。1279年(至元16年)には万州に移ったが、まもなく軍中で死去した[2]

王宏と王寧という息子がおり、王寧はシリギの乱討伐に加わってベクレミシュとともにオイラト軍を討ったとの記録がある[3]

脚注

  1. ^ 『元史』巻166列伝53王昔剌伝,「王昔剌、保定人。初事世祖、以其有勇略、遂賜名昔剌抜都。従攻釣魚山及阿里不哥、累功賜金符、授武衛親軍千戸」
  2. ^ 『元史』巻166列伝53王昔剌伝,「中統三年、従征李璮于済南、屡捷。四年春、元帥阿朮駐兵河南、遣昔剌将蒙古・漢軍復立宿州。至元六年、賜虎符、陞海州万戸。引兵攻塩林山寨、多所俘獲。十年、授東川行枢密院同僉。十五年、征夔州有功。十六年、徙鎮万州、卒于軍」
  3. ^ 『元史』巻166列伝53王昔剌伝,「子二曰宏、曰寧。宏先佩金符、為左衛千戸。及枢密院擬寧襲武職、寧譲其兄宏、於是授宏中衛都指揮使、佩父虎符、而以寧代宏為千戸、佩金符。寧従阿剌台・憨合孫北征、追撃脱脱木児之軍于阿納禿阿之地。師還、又従別急里迷失等撃賊外剌、斬首百餘級。復従忽魯忽孫北征有功。陞右衛親軍総管、後改前衛都指揮使司僉事。子処恭襲宏職、仕至侍御史」

参考文献

  • 元史』巻166列伝53王昔剌伝
  • 新元史』巻153列伝50王昔剌伝



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