毒殺強盗団事件とは? わかりやすく解説

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毒殺強盗団事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/10 14:42 UTC 版)

毒殺強盗団事件とは1946年11月22日から1947年1月3日にかけて発生した3件の殺人事件である。

事件

1947年1月3日午前6時30分、名古屋市瑞穂区松栄町在住のN・Cが4人組の強盗に襲われたと瑞穂警察署へ届け出た[1]、被害者は2人暮しで、8時に消灯し就寝したが0時30分頃に物音を理由に目を覚ました、不審に感じ夫・T(54歳)を起こしたときに4人組が寝室へ侵入し、出刃包丁を振り上げ、金銭を要求した、Tは静かにしているから何でも持っていくようにと言ったが、犯人は夫婦に猿轡をはめ手足を縛り、現金750円・着物・羽織等71点(見積もり2万円相当)を強奪し、「市電が走る時刻までここにいる」と言って、飾ってあった鏡餅を焼いて食べ、犯人の1人は「青酸カリを持っている」と脅した[1]、4人は4時頃に2人を縛り直し、猿轡を更にきつくはめて逃走した。その後NとTは協力して結び目を解いた[2]、直ちに所長、捜査員、巡査は現場へ向かった、午後7時過ぎTは置かれていたやかんに入っていた茶を電気コンロで暖め、2つの茶碗に注いで巡査に差し出した[2]、しかしあまり沸いていなかったため2人は飲まず、Tが再び温め直し飲み、飲んだところ苦くCになにか混入しなかったかと訪ねたが、Cは覚えは無いと答えた、Tはその直後苦しみ始め、医者が呼ばれ、胃洗浄を行い、名古屋市民病院に緊急搬送されたが、10時20分に死亡した[2]、愛知県警察は強盗殺人事件として捜査を進めた、同月5日に犯人らしい男の目撃情報を名古屋市交通局車掌・Yから供述を得た[2]、Yによると3日午前5時40分頃に自分が乗務する電車を発車しようとした時に、南方から4人組の男が走ってき、そのうちの1人は自転車に乗っていた、その後3人の男を電車に乗せ、自転車に乗った男だけはその場に残り、3人は名古屋駅前に降りた[3]、捜査本部では犯人の人相や所持品などから、本事件の犯人と推定し、捜査を進めた、操作の結果前年12月31日に古物商・Kに背広上衣などを売却した男がその際に青酸カリなどを預けていたことが判明し、麻雀屋のIが経営する麻雀荘では丸山を自称する男が仲間と遊技した時に小分けしていたという情報を入手[3]、一方昨年11月22日に東京都内で洋服仕立て業者に青酸カリを混入した茶を飲ませ殺害し、現金9000円と懐中時計を強奪して逃走した、静岡県小笠郡倉真村出身の無職・原田千里(29歳)という男の犯行が本事件と類似していることが明らかとなり、原田の顔写真をC、Y、K、Iの4人に見せたところ全員自分の会ったことのある男であると証言した、さらに名古屋市内の旅館業者に対し、原田の宿泊の有無について調査すると丸山文二と名乗って宿泊していたことが分かり、丸山と原田は同一人物であることが分かった[3]、原田は本事件の犯人として指名手配された、1月10日には名古屋駅構内の浮浪者・Tから顔見知りの丸山(原田)、S、H、Oの4人組の男から強盗に行こうと誘われて断ったとの聞き込みを得た、捜査の結果Hは本名M(17歳)、Oは本名Sであることが判明し、翌11日午前11時30分頃、古物商に預けた青酸カリを受け取りに来た原田を逮捕、その後原田の供述から同日午後3時30分から40分の間に名古屋駅前に集合することが分かり、M、S、Sの3人を映画館から出てきたところを逮捕した[4]、原田は取調べに対し、N・T 殺害事件について犯行の発覚を遅らせるために、やかんの中へ青酸カリを入れたことを認めた、この青酸カリは1946年10月頃に東京都上目黒区の知人から売却を依頼されてサンプルとして貰い受けた物であった事が判明、原田一味はN宅を襲撃した後に京都へ逃走し盗品の一部を売却し、その他の物品は持ち歩いていたが尋問され、放置して逃げた、10日に名古屋へ戻り、次の犯行のために、名古屋駅前で待ち合わせる予定であったがこの時に全員逮捕された[4]、その後原田に余罪が追求され、昨年12月18日午前10頃、煮干し加工業・O・T方へ、貝塚福太郎(37歳)と桑山吾一(29歳)と共に侵入し、Oの頸部を絞め、現金1800円と衣類等見積もり20000円相当を強奪し、その後にOが呻き声を上げたため、所持していた青酸カリを口に押し込み、猿轡をはめ、翌19日午前4時30分頃に逃走した事を自供した、Oはこの犯行によって死亡したが、原田らは逮捕後に初めてOが死亡したことを知った、1947年4月28日、原田、貝塚、桑山に死刑判決が言い渡され、SとSに無期懲役、Mに懲役15年の判決が言い渡された[4]。1952年8月11日に3人の死刑が執行された。

脚注

  1. ^ a b 愛知県警察史編集委員会 編『愛知県警察史 第3巻』1975年、619頁。NDLJP:9768746/329
  2. ^ a b c d 愛知県警察史編集委員会 編『愛知県警察史 第3巻』1975年、620頁。NDLJP:9768746/330
  3. ^ a b c 愛知県警察史編集委員会 編『愛知県警察史 第3巻』1975年、621頁。NDLJP:9768746/330
  4. ^ a b c 愛知県警察史編集委員会 編『愛知県警察史 第3巻』1975年、622頁。NDLJP:9768746/331

外部リンク

書籍

  • 愛知県警察史編集委員会 編『愛知県警察史 第3巻』1975年、NDLJP:9768746/329
  • 最高裁判所事務総局刑事局 編『死刑無期刑刑事事件判決集 第56号(上) (刑事裁判資料 ; 第56号)』1951年、400 - 413頁。NDLJP:1706223/209
  • 板津秀雄『死刑囚のうた』1993年1月、NDLJP:12722714/15



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