本山親茂
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本山 親茂(もとやま ちかしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。元の名を貞茂(さだしげ)といい、長宗我部氏へ臣従後に親茂と改名。
- ^ 山本大『長宗我部元親』35頁。最も本山方も郎党85人、兵士235名が戦死しており、痛み分けともいえる。
- ^ 親茂は父の茂辰に勝る勇将だったと伝わる。山本大『長宗我部元親』34頁。
- ^ 茂辰は降伏して「本山大夫法師」と称して、天正年間末期の段階で生存していたとする説もある。また、この説では茂辰の降伏後も妻(元親の姉)や子・親茂はこれに従わずに抵抗を続けたとする。朝倉「戦国末期の国人本山茂辰とその家族たち」、2014年、P223-224。
- ^ 永禄11年(1568年)冬に降伏したとする説もあるが、『元親記』には永禄3年から12年間続いたとあり、本山氏の当主としての親茂発給文書も元亀2年正月まで存続していることからこの年が親茂降伏の年と考えられる。朝倉、2014年、P224・231。
- ^ 本山氏の家督は吉良親貞の養子になっていた弟の吉良弥五良貞俵が本山氏に戻り、本山内記茂慶と名乗って家督を継いだという。朝倉、2014年、P226-228。
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