曇柯迦羅
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曇柯迦羅(どんまから、どんかから、とも、生没年不詳)は、三国時代に中天竺(サータヴァーハナ)から渡来した訳経僧。曇摩迦羅とも書く。中国人名は法時(ほうじ)。
出家前
家は代々裕福で梵福を修した。 曇柯迦羅は幼い時から才能に長けて聡く容貌も人並み優れていた。書物は一度読むだけでその意味を全て理解したという。 四囲陀論(ヴェーダ)を善く学び、風と雲の動き、星宿(星座)、図識、運変にも通暁していた。そして自ら「世界の現象とその意味はことごとく私の心腹にある」と言っていた。
曇柯迦羅が二十五才になり、ある僧房に行くと偶然に法勝の毘曇を見て目を通してみたが全く理解できなかった。丁寧に読み返してみても混乱や困惑がさらに増すだけであった。やがて嘆息して「私は多年に渡って学問を積み、古典を探求し、様々な書物に目を通したが、再び読み返したりその意味について考えたりすることはなかった、しかしこの仏教書は私の理解の及ぶところではなく、必ずやその深淵は今まで私が学んだ事とは別な意義があるに違いない」と言ったとされる。
その後、その経巻を携えて僧房に入り、ある比丘に請うて、概要を解説してもらうと曇柯迦羅は遂に因果の道理を深く悟り、三世の事を会得し、初めて仏教が広大で、俗書とは比較にならない事を知り、 世俗の栄華を捨てて出家して厳しい修行を行い大乗小乗の経典と諸部派の律を読誦し、常に利他伝教を優先させ自己の安穏のみを願うことは無かったとされる。
出家後
嘉平二年(250)に魏の洛陽に来て(『破邪論』巻上には「魏書では文帝の黄初三年(222)に許都に来た」と記述され[1]、『開元釈経録』巻1には文帝の黄初三年(222)に,洛陽にやってきたと述べられている)[2]。 白馬寺で経典の翻訳に従事。当時、魏国の仏教は僧侶は多かったが帰戒も受けておらず、剃髪していることだけが仏教者の証明であり、また斎祀や懺悔を行うのも中国古来の『祠祀』に則るものでしかなかった中国の仏教を正した。 また数人の僧侶から「戒律を訳してほしい」と頼まれると、曇柯迦羅は「戒律の翻訳は膨大な量になり、仏教が盛んでない魏では翻訳しても使われることは無い」と考え「僧祗戒心」を訳出して、これを朝夕の用に備える方式を導入。 さらに魏に居た天竺僧に頼んで羯磨の法を立てて、授戒の儀式を執り行うという段取りの、戒律を授ける作法を初めて中国に伝えた。
脚注
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