庾闡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 庾闡の意味・解説 

庾闡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 04:16 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

庾 闡(ゆ せん、生没年不詳)は、東晋文人官僚は仲初。本貫潁川郡鄢陵県

経歴

庾東の子として生まれた。学問を好み、9歳で文章を作ることができた。若くして母の孫氏に従って、長江を南に渡った。母の孫氏は庾闡の兄の庾肇が楽安国長史となったのに従って、項城にいたが、永嘉末年に項城が石勒に攻め落とされると、母の孫氏は死没した。庾闡は母を悼んで身なりを整えず、婚姻や任官もせず、酒肉を断って20年に及んだ。州により秀才に挙げられ、また司馬睿が晋王となったときに招かれたが、いずれも行かなかった。

後に西陽王司馬羕の下で太宰掾となり、尚書郎に累進した。蘇峻の乱が起こると、庾闡は郗鑒のもとに逃げだし、その下で司空参軍となった。蘇峻の乱が平定されると、庾闡は功績により吉陽県男の爵位を受け、彭城国内史に任じられた。再び郗鑒の下で従事中郎となった。まもなく建康に召し出されて散騎侍郎となり、大著作を兼ねた。ほどなく零陵郡太守に任じられて出向し、湘川に入って賈誼を弔った。

後に病のため召還されて、給事中に任じられ、再び著作を兼ねた。呉国内史の虞潭太伯のために碑を立てるにあたって、庾闡がその碑文を作った。また「揚都賦」を作って、当時に重んじられた。54歳で死去した。は貞といった。かれの著した詩・賦・銘・頌10巻が当時に通行した。

子に庾粛之があり、やはり文名で知られ、給事中・相府記室・湘東郡太守を歴任して、太元年間に死去した。

伝記資料

  • 晋書』巻92 列伝第62



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  庾闡のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「庾闡」の関連用語

庾闡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



庾闡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの庾闡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS