幸岡親時とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 幸岡親時の意味・解説 

幸岡親時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/12 07:10 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

幸岡親時(こうか ちかとき、生没年不詳)は下野国塩谷郡鎌倉時代の武将。塩谷親朝の三男[1]泰朝の弟。五郎左衛門。幸岡氏の祖。

略歴

塩谷親朝の子で、塩谷郡幸岡郷に入り、幸岡城を築き居城として幸岡氏(又は幸賀氏とも)を創始する。以降、幸岡氏は代々継承され、のちに喜連川に移り繁栄するが、どのような系譜で継承されていったものかは定かではない。

事跡はほとんど伝わっていないが、吾妻鏡によれば正嘉元年(1257年)10月、鎌倉将軍家が大慈寺の大規模な修繕を行い、その供養を行う時、親時は、兄の泰朝とともに馬を引く従者として参加しているが、親時がこの時代に活躍した事を証明する数少ない事績である。

現在、幸岡には、五郎左衛門堰の地名が残っている。

脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 秋田塩谷系譜に基づく。但し、五郎を名乗っていたため、矢板市史では五男と記す。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「幸岡親時」の関連用語

幸岡親時のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



幸岡親時のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの幸岡親時 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS