王政君
(孝元王皇后 から転送)
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王 政君(おう せいくん)は、前漢の元帝(劉奭)の皇后で、成帝(劉驁)の生母。孝元皇后(孝元王皇后)、元后、孝元皇太后、孝元太皇太后と称される。
- ^ 以下、特に注釈がない場合、出典は、『漢書』元后伝
- ^ 嫉妬により、王禁と離縁し、再婚して河内の苟賓という人物と結婚している。
- ^ 『漢書』成帝紀及び『漢書』元后伝
- ^ 『漢書』成帝紀
- ^ a b 『漢書』外戚伝下
- ^ a b c d e f g h i 『漢書』佞幸伝
- ^ 王立は淳于長が讒言したせいで、自分が大司馬になれず、政治を取り仕切れないと考え、常に淳于長を恨み憎んでいた
- ^ 『漢書』何武王嘉師丹伝及び『漢書』王莽伝上
- ^ a b 『漢書』哀帝紀
- ^ a b c d 『漢書』王莽伝上
- ^ a b 『漢書』五行志
- ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.95-97
- ^ 『後漢書』巻12王劉張李彭盧列伝
- ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.104-106
- ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.161
- ^ 伝国璽とは、高祖が秦を滅ぼした時に、秦王子嬰が高祖に奉じた璽印であると、(『漢書』)元后伝には書かれている。しかし、栗原朋信氏の「文献にあらわれたる秦漢璽印の研究」によれば、伝国璽は前漢には存在せず、後漢の光武帝の頃から実在するようになったもので、後漢王朝が前漢王朝の継承者としての正統性を主張するためのものではないか、とされる。また栗原氏は、この伝国璽授受の一幕を叙したくだりを、王莽の禅譲革命を認めず、簒奪革命として非難しようとする王朝の立場からの、文学的修飾を施した文章であって実録的な性格のものではないとし、ここで伝国璽とされているのは、皇帝の六璽(「皇帝行璽」や「天子行璽」など六つの皇帝専用の璽印)であったと考えるべきだ、とも指摘している。元后伝にこの一幕を挿入することによって、班固は革命の性格を変質させようとしたのだということになる。『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.186-187
- ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.188
- ^ 王政君が生存しているため、廟とは名付けなかった。
- ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.47
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- 2 王政君の概要
- 3 王政君が登場する作品
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