夷子健治とは? わかりやすく解説

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夷子健治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/27 01:50 UTC 版)

えびすけんじ
夷子健治
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日本の勲章授賞者
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生誕 1938年11月1日
日本 愛媛県松山市中島町
死没 2011年3月16日(72歳)
日本 愛媛県松山市
死因 病死
出身校 海上保安大学校
職業 海上保安官
肩書き 海将、第七管区海上保安部本部長
受賞 瑞宝章

夷子健治(えびすけんじ1938年-2011年)は、日本の元海上保安官。

生涯

1938年愛媛県松山市中島町に生誕。

少年時代

島に住んでいたため、少年時代は夏になると海で素潜りや、手漕ぎ船で遊んでいた。家庭は貧乏で、小学5年生の時に、担任の教師に進められるまで勉強はしていなかった。また、とてもわんぱくな少年だった

海上保安官になるまで

健治は、海上保安大学に入った理由は、「給料がもらえるから家族を支えられると思ったから」と話している。そのため、海上保安大学は何をするところかも分からなかったという。訓練がつらく、船酔いで血反吐をたりしたが、何とか耐えた。

海上保安官時代

海上保安大学を卒業したあと、配属された。家は隣と襖一枚でつながっていて、会話が筒抜けだった。お風呂は一つしかなく、若い者がお風呂を沸かした。妻は「とても大変だった」と話している。 この後に、いろいろな所へ転勤をし、密漁の取り締まりや、警備救難部長などを務めた。

第七管区海上保安本部長時代

このころには、もう息子、娘が結婚していた。家の立地は関門海峡と七管本部が見える場所だった。それなのに、車で迎えが来ていた。妻が「車はいらないと思う」というと、健治は「あの運転手の仕事がなくなってしまうからどんなに近くても乗るのがマナーだといった。」妻は「いろいろなところまで気を使っていてすごい」と答えたそうだ。

七管観閲式

七管観閲式で、健治は観閲官を務めた。健治は親戚に「感動し涙が出そうだった」と話した。

退職後

2010年に瑞宝章を授章した。また、園遊会では、天皇、皇后両陛下よりお言葉を賜り感激した。

死後

死後、従五位を授かる。葬儀には約200名が訪れた。

出典

海上保安新聞 平成22年5月13日号




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