大井行満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 02:11 UTC 版)
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|---|---|
| 時代 | 室町時代 - 戦国時代 | 
| 生誕 | 享徳2年(1453年) | 
| 死没 | 大永5年3月3日(1525年3月26日) | 
| 別名 | 小次郎、縫殿助、弾正忠 | 
| 戒名 | 高井院月潭良龍 | 
| 墓所 | 桃源院 | 
| 氏族 | 小笠原氏流大井氏 | 
| 父母 | 父:大井行俊、母:大井持光の娘 | 
| 兄弟 | 行満、女子(依田源四郎室)、行朝 | 
| 妻 | 板垣氏の娘 | 
| 子 | 女子(屋澤氏室)、行真、行次、松岩(桃源院開祖) | 
大井 行満(おおい ゆきみつ)は、戦国時代の武将、信濃国佐久郡、岩尾大井氏、二代岩尾城主。大井行俊の嫡子。
生涯
享徳2年(1453年)、長土呂館に生まれる。文明年間に甲斐国の板垣氏の娘を娶る。文明18年(1486年)、家督を嗣ぎ弾正忠と称した。延徳元年(1489年)、武田信昌が佐久に侵入して岩尾城も焼き討ちにあったが、小諸城主大井光忠、香坂・志賀・平賀氏の勢力が結集し、村上氏の支援によって武田勢を退け、行満は帰城した。永正6年(1509年)、関東管領上杉顕定の斡旋により、伴野貞慶との和議を行った[1]。明応年中(1492年-1500年)に出家し回国修行に出て、大永5年(1525年)岩尾城に帰り、西国・坂東・秩父百番観音巡札の供養塔を建てた。同年3月3日、岩尾城に卒す。73歳。遺言により牌を高野山蓮華定院に建てた。
脚注
参考文献
- 『日本城郭大系』 1980、第8巻 長野・山梨 新人物往来社、1980年
- 大井敏夫、1996、『岩尾家譜(現代語訳)』1996年
- 古川貞雄、1997、『長野県の歴史』山川出版社、1997年3月、ISBN 4634322005
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