前島昇
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前島 昇(1904年 - 不明)は、満洲国、晋北自治政府、蒙古聯合自治政府の日本人官僚。
生平
宮城県仙台市出身。家は仙台藩の儒学者の出であるという。第二高校に進学、独文科3年生の時に水泳部設置運動に関わる[1]。東北帝国大学法文科に進学し、在学中は応援団長を務めた。1928年卒業後は長野県庁職員で、社会課社会事業主事補、農林主事であったが[2]、満洲国に渡り、実業部農務司となる。間もなく吉林省磐石県参事官[3]として宣撫工作に功を上げる。この際、匪賊との接触を断つべく、農民を一か所に強制移住させる「集団部落」構想を立案したとされ[4][5]、500ページにわたる提言書を提出[6]。阿城県副参事を経て、大同学院教授[6]。
1937年10月15日、晋北自治政府が成立すると軍の依頼で最高顧問に就任[7]。1939年9月1日、蒙古聯合自治政府への合流に伴い晋北政庁(長官:田汝弼)次長を1941年6月まで務めたのち[8]、同総務次長[9]。武内哲夫の後任で署理総務庁庁長[10]。
戦後は満蒙関係恩給運動に関わっていた[11]。
出典
- ^ 『第二高等学校・東北大学水泳部五十年史 : 大正13年~昭和48年』しぶき会、1977年2月、1頁。NDLJP:12135359/8。
- ^ 報知新聞 1938, p. 240.
- ^ 日本帝国主义侵华档案资料选编:汪伪政权,北京:中华书局,2004年,第79页
- ^ 満洲国史編纂刊行会 編 編『満洲国史 各論』満蒙同胞援護会、1970年、199頁。NDLJP:12179952/117。
- ^ 沢地久枝 編『もうひとつの満洲』文藝春秋〈文春文庫〉、1986年1月、103頁。NDLJP:12179156/53。
- ^ a b 報知新聞 1938, p. 241.
- ^ 山西通志: 政务志·政府篇,北京:中華書局,第278-279页
- ^ 日本帝国主义侵华档案资料选编:汪伪政权,北京:中华书局,2004年,第166页
- ^ 刘寿林等,民国职官年表,北京:中华书局,1995年,第1229页
- ^ 日本帝国主义侵华档案资料选编:汪伪政权,北京:中华书局,2004年,第187页
- ^ 満蒙関係恩給法改正期成同盟 編 編『満蒙関係恩給運動の歩み』1978年6月、6,14,80頁。NDLJP:12114002。
参考文献
- 『満洲紳士録 第3版』満蒙資料協会、1940年、1520-1521頁。NDLJP:1687713/820。
- 報知新聞社政治部 編 編『大陸の顔』東海出版社、1938年、239-242頁。NDLJP:1877725/130。
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