元志とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 元志の意味・解説 

元志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 07:18 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

元 志(げん し、生年不詳 - 524年)は、北魏皇族は猛略。

経歴

武川鎮将の拓跋蘭(拓跋斉の子)の子として生まれた。若い頃から広く書物を読み、文才があった。洛陽県令となり、御史中尉の李彪と道の通行を争って、ともに入朝すると、孝文帝の前で理非を述べた。馮昭儀(後の孝文幽皇后)の弟の馮俊興が権勢をたのんで横暴をふるったため、元志はかれを収監して処刑した。このため太尉主簿に左遷された。まもなく従事中郎となった。

孝文帝の南征のおり、帝が微服で観戦していたところ、一本の矢が帝の身に向けられた。元志が身をもってかばったため、帝は危難を免れた。矢は元志の目に当たって、片眼を失明した。元志は行恒州事として赴任した。宣武帝のとき、荊州刺史に任じられた。御史中尉の王顕に人身売買の罪を告発されたが、赦免された。516年熙平元年)、荊沔都督として南朝梁の軍を破り、南朝梁の恒農郡太守の王世定らを斬った。廷尉卿を兼ねた。後に揚州刺史に任じられ、建忠伯の爵位を受けた。まもなく雍州刺史に転出した。

晩年の元志は声伎を好み、揚州において百人近くを侍らせ、持ち物や服装も珍美なものが多かった。雍州に赴任すると、奢侈はますます激しくなり、その統治も収奪がひどく、名誉を損なった。

524年正光5年)、莫折念生の乱が起こると、元志は西征都督に任じられて反乱討伐にあたった。莫折念生の弟の莫折天生が隴口に駐屯して、元志と対峙した。元志は敗れて軍隊を放棄し岐州に逃げ帰った。反乱軍は岐州城を攻撃した。岐州刺史の裴芬之(裴叔業の子)は城民が反乱側と通じていると疑い、城を出ようとしたが、元志は聞き入れなかった。城民は開門して反乱軍を引き入れ、元志と裴芬之を拘束して莫折念生のもとに送った。元志は裴芬之とともに殺害された。531年普泰元年)、尚書僕射・太保の位を追贈された。

伝記資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「元志」の関連用語

元志のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



元志のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの元志 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS