三重交通硬式野球部とは? わかりやすく解説

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三重交通硬式野球部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/31 14:00 UTC 版)

三重交通硬式野球部
チーム名(通称) 三重交通
加盟団体 日本野球連盟
加盟区分 企業チーム
創部 1950年
廃部 1968年
チーム名の遍歴
  • 三重交通 (1950 - 1968)
本拠地自治体
都市対抗野球大会
出場回数 7回
最近の出場 1965年
最高成績 3位
日本産業対抗野球大会
出場回数 3回
最近の出場 1956年
最高成績 初戦敗退
社会人野球日本選手権大会
出場回数 ※大会創設前に廃部
全日本クラブ野球選手権大会
出場回数 ※出場資格なし

三重交通硬式野球部(みえこうつうこうしきやきゅうぶ)は、三重県伊勢市に本拠地を置き、日本野球連盟に加盟していた社会人野球の企業チームである。1968年10月に活動を停止した。

運営母体は、私鉄(当時)の三重交通

概要

1950年4月、三重交通が硬式野球部として『三重交通硬式野球部』を創設[1]

1952年には、創部2年目にしてエース服部力を擁して都市対抗野球に初出場。準決勝で日鉄二瀬に敗れたが、3位決定戦で熊谷組相手に延長13回サヨナラ勝ちを収め黄獅子旗を獲得した。

1954年にも、服部を擁し都市対抗野球に出場し8強入りを収める。

1950年代中盤に入ると若干勢いが衰えたが、1959年都市対抗野球に5年ぶりに出場するとそこから3年連続で出場。1961年には服部が監督として復帰し、南海ホークスを退団した円子宏などを補強した。その後、円子が現役を引退して監督に就任。1964年1965年に2年連続で都市対抗野球に出場した。

1968年10月22日、経営合理化のため活動を停止した[2]

以後、三重県からの都市対抗出場チームはほぼHonda鈴鹿のみとなり、それ以外のチームの都市対抗野球出場は2014年第85回大会に出場した永和商事ウイング四日市市)まで待たれることとなった。

沿革

  • 1950年 - 『三重交通』として創部。
  • 1952年 - 都市対抗野球に初出場(3位)。
  • 1968年 - 母体の経営合理化のため活動を停止(正式な解散は1974年末)。

主要大会の出場歴・最高成績

主な出身プロ野球選手

元プロ野球選手の競技者登録

脚注

  1. ^ 会社沿革 三重交通公式ホームページ、2018年3月23日。
  2. ^ “三重交通野球部が休部”. 毎日新聞. (1968年10月23日) 

関連項目




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