ルーマニア民族統一党とは? わかりやすく解説

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ルーマニア民族統一党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/18 21:37 UTC 版)

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 ルーマニア政党
ルーマニア民族統一党
Partidul Unitǎţii Nationale Române
党首 ギョルゲ・フナル
成立年月日 1990年3月15日 (1990-03-15)
解散年月日 2006年2月 (2006-2)
後継政党 保守党
政治的思想・立場 民族主義
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ルーマニア民族統一党(ルーマニアみんぞくとういつとう、ルーマニア語: Partidul Unitǎţii Nationale Române)は、かつて存在したルーマニアの民族主義政党。略称はPUNR

1990年、ハンガリー系少数民族の組織であるハンガリー人民主連合(UDMR)の創設に対抗する形で、「ルーマニア人の生家・文化連合」を母体として3月15日に結成された。結党直後に行われた1990年総選挙 には、共和党(Partidul Republican)と選挙連合「ルーマニア人統合のための連合(Alianţa pentru Unitatea Românilor)」と組んで臨み、9議席(得票率2.12%)を獲得した[1][2]

党史

  • 1990年
    • 3月15日 - ハンガリー人民主連合に対抗する形で結成[1][2]
    • 結党直後 - 1990年総選挙、共和党と選挙連合「ルーマニア人統合のための連合(Alianţa pentru Unitatea Românilor)」を組んで臨み、9議席(得票率2.12%)を獲得[1][2]
  • 1992年
    • 9月 - 総選挙で、30議席(得票率7.7%)を獲得し、第4党となる。社会民主主義党主導のもとに大ルーマニア党、社会主義労働者党などと連立を組みニコラエ・バカロイウ内閣で4つの官僚ポストを獲得[1][2]
  • 1996年
    • 1月 - 対ハンガリー政策をめぐり社会民主主義党と対立。連立を解消[1][2]
    • 11月 - 総選挙において勢力を維持したものの(得票率4.4%)、大統領選における党首ギョルゲ・フナル(Gheorghe Funar)の惨敗(第6位)を受けて、党内対立が激化。事実上の党分裂へと至る[1][2]
  • 2000年
    • 同年 - 総選挙を前にし、ルーマニア民族党と合同して「国民連合(Alianţa Naţională)」へと改組されたが、惨敗を喫し、議席を喪失。この結果を受け、国民連合は分裂[1]
  • 2004年
    • 同年 - 総選挙で再び惨敗[1]
  • 2006年

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i ポスト社会主義諸国政党・選挙ハンドブックIII』ポスト社会主義諸国の政党・選挙データベース作成研究会(編)、京都大学地域研究統合情報センター〈CIAS Discussion Paper No.18〉、2010年12月。2019年6月24日閲覧。
  2. ^ a b c d e f ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “ルーマニア民族統一党”. コトバンク. 2019年6月24日閲覧。



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