ヨークの戦い (867年)とは? わかりやすく解説

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ヨークの戦い (867年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/26 07:24 UTC 版)

ヨークの戦い
ヴァイキングのイングランド遠征英語版

現在のヨークの街並み
867年3月21日
場所 ヨーク
結果 ヴァイキングの勝利
衝突した勢力
大異教軍 ノーサンブリア王国
指揮官
イヴァール・ラグナルソン英語版
(イマール・ラグナルソン英語版?)
ウッバ・ラグナルソン英語版
エッラ王英語版 
オスバート王英語版 

ヨークの戦い(ヨークのたたかい、英語: Battle of York)とは、867年3月21日にヨークで発生した戦闘である。ラグナル・ロズブロークの息子であるイヴァール・ラグナルソン英語版ウッバ・ラグナルソン英語版率いる大異教軍と、 エッラ王英語版オスバート王英語版率いるノーサンブリア軍との間で発生した。

ヨークはかつてローマ帝国の北ブリタニアにおける拠点都市であったが、ローマ帝国のブリタニア撤退後にアングロサクソン人が占領し、最終的にはノーサンブリア王国の首都となった。そして866年、ノーサンブリア王国では王座を巡る内戦が勃発し、エッラ王英語版オスバート王英語版の2人の王族が互いに対立した。そんな中ブリテン諸島に大挙して現れた大異教軍によって王国の首都ヨークは占領された[要出典]

867年春、エッラ王とオスベルト王は首都を占領したヴァイキングを撃破するべく同盟を締結し、両者は力を合わせてヨークを奪還しようと試みた。ノーサンブリア軍はヨークの城壁を乗り越えて市街への侵入に成功したが、ヨーク市街での戦闘でヴァイキングを撃破することはできなかった。またこの戦いのさなか、エッラ王とオスベルト王はともに戦死し、ノーサンブリア王国の試みは失敗に終わった。

ノーサンブリア軍に勝利したヴァイキングは、ノーサンブリア王族の1人であるエグバートをノーサンブリア王に据え置き、王国に傀儡政権を構築した。そして最終的にはノース人が直接この王国の版図を支配するようになり、ヨークを中心とするヨールヴィーク王国を建国するに至った。

背景

ヨーク

ヨーク市街を囲むローマ時代の城壁の一部

5世紀ごろ、ローマ帝国がブリテン諸島から撤退した後のヨークはアングロサクソン人によって再征服された[1]。ヨークの町はノーサンブリア王国の首都となり、ノーサンブリア王とヨーク大司教が拠点を置く中心都市として栄えた[2]。ヨーク市街を囲むローマ時代の城壁は当時も残存してはいたものの、ボロボロの状態であり適切な修復もなされていないような状況であったとされ、ノーサンブリア人に対する攻撃に対する防衛設備として役に立つ代物ではなかったと考えられている[3]

ヴァイキングの侵攻

8世紀ごろからヴァイキングはブリテン諸島に対する小規模な襲撃活動を開始したが、大異教軍のようなブリテン諸島内陸部の征服を意図した大規模な遠征軍は860年代になるまで指揮されることはなかった[4]。865年、ラグナル・ロズブロークの息子たちが率いる大異教軍がイーストアングリア王国に上陸し、イングランドへの大規模な征服遠征が開始された[5]。そしてラグナルの息子であるウッバ・ラグナルソン英語版骨無しのイヴァール英語版の2人のヴァイキング首領が率いるヴァイキング軍団は866年11月1日にヨークを占領した[3]。ノーサンブリア王国に対する軍事遠征は、彼らの父親ラグナルの死に対する復讐の意図があったものと考えられている[6]。当時のノーサンブリア王国は内乱状態にあったといい、エッラ王が先王オスベルトを武力で追放することで王位の座に就いていたとされ、オスバート王とエッラ王の2人の王族はノーサンブリア王位を巡り激しく対立していた[7]。それ故、ヴァイキングはヨークをたやすく占領することができたが、エッラ王の捕縛には失敗していた[7]

決戦

867年春、対立していたエッラ王とオスバート王はヴァイキングに立ち向かうためにいったん和解し、3月21日にはヨークを守るヴァイキング軍団と決戦した[3][8]。ノーサンブリア軍は戦闘序盤でヴァイキングを圧倒し、ヨーク城壁を乗り越えて市街への侵入に成功した[7]。しかし戦闘経験の豊富なヴァイキングはノーサンブリア軍の猛攻にしっかりと耐え[要出典] 、ヨーク市街の狭い通りでの戦闘に持ち込み多勢のノーサンブリア軍が有する数的有利さを打ち消すことで、着実にノーサンブリア軍を打ち負かしていったという[3][要出典]。また別の文献によれば、ヴァイキングは戦闘中にヨーク城壁の下でノーサンブリアのヨーク守備兵と両王率いるノーサンブリア本軍とに挟撃されたものの、ヴァイキングは果敢に反撃してノーサンブリア軍を押し返し、両王が戦死したことで戦闘はヴァイキングの勝利で終わったという[6]

ノース人の言い伝えによれば、勝利したヴァイキング軍団の首領イヴァール・ウッバは、エッラ王を生け捕りにし、血の鷲と称される残虐な処刑方法をもってして彼を殺害したという[9][10]。アングロサクソン人に伝わる年代記であるアングロサクソン年代記には単純に2人の王は戦場にて殺害されたとのみ記述されている[11]

その後

ヨールヴィークデーンロウ

戦後、ヴァイキングの指導者たちはノーサンブリア王族エグバートを傀儡王としてノーサンブリア王位に就かせた[12]が、エグバートは872年に勃発した反乱により追放され、マーシアに亡命した。その後、大異教軍の指導者の1人であるハールフダン・ラグナルソンによってその反乱は鎮圧されたが、これを機にヴァイキングはヨークとデイラ地域(ノーサンブリア南東地域)を征服し、他のヴァイキング領主と共にノーサンブリアの直接統治を開始した[12]。これがヨールヴィーク王国の始まりである。ヨールヴィーク王国はその後910年にアングロサクソン人によって再征服されるまでの間、ヴァイキングの統治下に置かれていた[13]。ヴァイキングはその後もヨールヴィーク王国を幾度か奪還し、954年にウェセックス王国に従属するまでアングロサクソン人とヴァイキングとの間で紛争が続いた。しかし954年にウェセックス王国に従属したのち、ヴァイキングは2度とノーサンブリア征服の試みを行うことはなかった[14]

954年にウェセックス王国が征服する以前の期間、ティーズ川以北バンボロー英語版以南地域はヴァイキングの侵略を受けることなく、アングロサクソン人領主が統治を続けていた[12]

出典

文献




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