ユーリー・アレクサンドロヴィチ_(ウグリチ公)とは? わかりやすく解説

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ユーリー・アレクサンドロヴィチ (ウグリチ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/27 09:05 UTC 版)

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ユーリー・アレクサンドロヴィチ
Юрий Александрович
ウグリチ公
ロストフ公
ユーリーの死(16世紀の年代記)
在位 ウグリチ公1302年 - 1320年
ロストフ公1316年 - 1320年

死去 1320年5月30日
家名 リューリク家
父親 ウグリチ公アレクサンドル・コンスタンチノヴィチ
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ユーリー(ゲオルギー)・アレクサンドロヴィチロシア語: Юрий(Георгий) Александрович、? - 1320年5月30日)は、14世紀初頭のルーシの分領公である。ウグリチ公:1302年 - 1320年、ロストフ公:1316年 - 1320年[1]

生涯

ユーリーはウグリチ公アレクサンドルの子、コンスタンチン(ru)の孫として生まれた。ユーリーがまだ年少の頃に父は死亡し、1307年にそのウグリチ公位を継承した。1316年にはおじヴァシリーが死亡し、ヴァシリーの2人の子はまだ年少であったために、ヴァシリーの有していたロストフ公位をも継承した[1]。ユーリー統治期の1318年のロストフは、コチュク[注 1]と記録されるジョチ・ウルスからの大使によって災厄を受けた、という記録がある。

ユーリーは1320年5月30日に死亡した。また17もしくは18歳であり、子をなす前だった(ミハイルという子がいたという説もある[1])。ユーリー死後のウグリチ公位ならびにウグリチ公国モスクワ公国が接収した。ロストフ公位ならびにロストフ公国はヴァシリーの2人の子フョードルとコンスタンチン(ru)に分割して相続された。

脚注

注釈

  1. ^ 「コチュク」:ロシア語: Кочк

出典

  1. ^ a b c Виноградов. А. Ростовские и Белозерские удельные князья // Русский биографический словарь : в 25 томах. — СПб.—М., 1896—1918.
先代:
アレクサンドル・コンスタンチノヴィチ
ウグリチ公
1302年 - 1320年
次代:
モスクワ公国領)
先代:
コンスタンチン・ボリソヴィチ
ロストフ公
1316年 - 1320年
次代:
フョードル・ヴァシリエヴィチ
コンスタンチン・ヴァシリエヴィチ



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