ユリウス・コンスタンティウスの娘とは? わかりやすく解説

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ユリウス・コンスタンティウスの娘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/16 02:09 UTC 版)

不明
ローマ皇后
在位 337年 – 353年頃

全名 不明
出生 不明
死去 353年8月以前
配偶者 コンスタンティウス2世
家名 コンスタンティヌス朝
父親 ユリウス・コンスタンティウス
母親 ガッラ英語版
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ユリウス・コンスタンティウスの娘は、ローマ皇帝コンスタンティウス2世皇后[1]コンスタンティヌス1世の異母弟であるユリウス・コンスタンティウスガッラ英語版の娘だが、名前は判明していない[注釈 1]。なお、文中では以降「彼女」と表記する。

家族

フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスが著した『アテネの人々と元老院への書簡』によれば、「彼女」はコンスタンティウス・ガッルスの姉妹であった[1]354年コンスタンティウス2世によってガッルスが処刑されたとき、ユリアヌスは2人の関係について、「コンスタンティウスは最も根深い敵、彼自身の従兄弟であり、副帝であり、彼の英語版の夫であり、彼の姪の父親であり、かつて自身が結婚した姉妹をもつ男を差し出したのである。」と、複数の言い方で言及している[3]

ガッルスは、ユリウス・コンスタンティウスと、彼の最初の妻であるガッラの息子である。そのため、「彼女」はガッルスの実の姉妹であると推測されている[1]。なお、ユリウス・コンスタンティウスは、コンスタンティウス・クロルスフラウィア・マクシミアナ・テオドラの息子であり、コンスタンティヌス1世の異母弟である。コンスタンティヌス1世が337年に死去すると、その後すぐにユリウス・コンスタンティウスをはじめとする彼の親族は、コンスタンティウス2世によって殺害された[4]。この出来事については、358年アレクサンドリアのアタナシオスによって著された『アリウス派の歴史』において、「人類に共通する感情であっても、彼自身の血縁者に対して容赦させることはできなかった…。彼は義父の苦しみに同情はしなかった。彼の娘と結婚したにもかかわらず…。」と、コンスタンティウス2世を非難する文脈で語られている[5]。なお、「彼女」の兄弟も、337年に父ユリウス・コンスタンティウスとともに殺害されたと考えられている[4]

結婚

コンスタンティウス2世と「彼女」との結婚については、エウセビオスが著した『コンスタンティヌスの生涯』において、「彼(コンスタンティヌス1世)の治世の30年目の満了に際して、彼は次男(コンスタンティウス2世)の結婚を厳かに執り行った。長男については、遥か昔に済ませている。これは大きな喜びと祝祭の機会であって、皇帝自らが息子の式典に付き添い、招待客を男女それぞれに分け、非常に豪華なもてなしを行った。豊かな贈り物も、都市や人々に惜しみなく配られた。」と記録されている[6]。この結婚は、335年336年に行われたと推測されている[4]。なお、コンスタンティヌス1世が皇帝に即位したのは306年のことである[7]

「彼女」の名前や死亡した時期については、史料に一切記録されていない。歴史家のトーマス・M・バンチックは、「おそらく『彼女』の死が、353年~354年にガッルスが失脚した要因となった可能性がある」と主張している[1]。ユリアヌスによって著された『エウセビアを称える賛辞』によれば、コンスタンティウス2世の後妻であるエウセビア英語版との結婚は、コンスタンティウス2世と対立していたマグネンティウスの敗北前に行われたとされる。マグネンティウスは353年8月に自殺しているため、エウセビアとの結婚は同年の早い時期に行われた可能性が指摘されている[8]

注釈

  1. ^ 彼女の名前は、おそらく両親の名に由来するガッラ、ユリア、コンスタンティアのいずれかであったと推測される[2]

脚注

  1. ^ a b c d Thomas M. Banchich, "Gallus Caesar (15 March 351 - 354 A.D.)"
  2. ^ Noel Emmanuel Lenski, The Cambridge companion to the Age of Constantine, Volume 13, Cambridge University Press, 2006, ISBN 0-521-52157-2, p. 107.
  3. ^ "The Works of the Emperor Julian", 1913 translation by Wilmer Cave Wright, vol. 2, pages 253-255]
  4. ^ a b c Michael DiMaio, Jr., "The Siblings of Constantine I"
  5. ^ Athanasius of Alexandria, "History of the Arians". Translation by Philip Schaff (1819-1893)
  6. ^ Eusebius of Caesarea , "Life of Constantine", Book 4, Chapter 49
  7. ^ Hans A. Pohlsander , "Constantine I (306 - 337 A.D.)"
  8. ^ Jones, A.H.M.; Martindale, J.R. (1971). The Prosopography of the Later Roman Empire, Vol. I: AD 260–395. Cambridge University Press. p. 300.
王室の称号
先代
不明
ローマ皇后
337年–353年頃
次代
エウセビア英語版



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