モルト・ダ・フェルトレとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > モルト・ダ・フェルトレの意味・解説 

モルト・ダ・フェルトレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/06 07:08 UTC 版)

モルト・ダ・フェルトレ
Morto da Feltre
生誕 1480年頃
死没 1527年頃
テンプレートを表示

モルト・ダ・フェルトレMorto da Feltre1480年頃 - 1527年頃)はイタリア画家

略歴

モルト・ダ・フェルトレは仇名で、本名は、ピエトロ・ルッツォ(Pietro Luzzo)、ピエトロ・ルーシ(Pietro Luci)、ロレンツォ・ルッツォ(Lorenzo Luzzo)などだとされる。ツァラート(Zarato)もしくはツァロット(Zarotto)とも呼ばれたが、どちらも彼の没した土地または画家の子供時代に外科医の父親がツァラ(Zara)に住んでいたからとされる。名のモルトは「死」を表す名前であるが、憂鬱な気質によるか、絵画を描くために古代の遺跡を発掘して調べたことによるとされる。

ジョルジョ・ヴァザーリが書いた芸術家の伝記、「画家・彫刻家・建築家列伝」にその生涯が紹介されている。現在のヴェネト州フェルトレで生まれた。ヴァザーリの伝記によれば、若い頃、ローマに行き、古代の、ドムス・アウレアなどの地下の遺物、地下室や地下道を観察し、その後ポッツオーリでも古代ローマの遺跡を調査し、「グロテスク様式」の装飾を描くのに生かしたとされる。

ローマでダ・フェルトレの作品は受け入れられ、その後、フィレンツェで働き、パラッツォ・パブリコにいくつかの作品を描き、弟子のディ・コジモ・フェルトレ(Andrea di Cosimo Feltrini)を育てた。1505年までにヴェネツィアを訪れ、ジョルジョーネとともに働き、1510年ころまでヴェネツィアに留まった。1515年には故郷のフェルトレに戻って、いくつかの絵を残した。晩年は画家をやめ、兵士となって200人の軍団を率いたとされる。1519年にダルマチアのツァラで死亡したと伝えられる。

作品

参考文献

  • Freedberg, Sydney J. (1993). Pelican History of Art, ed. Painting in Italy, 1500-1600. Penguin Books Ltd. p. 675.
  • Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Feltre, Morto da". Encyclopædia Britannica. 10 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 247.
  • Ticozzi, Stefano (1813). Storia dei letterati e degli artisti del Dipartimento della Piave. Francesco Antonio Tissi, Belluno. p. XIII.
  • Manescalchi, Roberto (2004). Le Grottesche del Morto. Bollettino degli Ingegneri, Firenze.


外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「モルト・ダ・フェルトレ」の関連用語

モルト・ダ・フェルトレのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



モルト・ダ・フェルトレのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのモルト・ダ・フェルトレ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS