ミハイル・パレオロゴス (東ローマ皇子)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 00:46 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2011年10月) |
ミハイル・パレオロゴス Μιχαήλ Παλαιολόγος |
|
---|---|
トラキア・ザゴラ専制公 | |
在位 | 1371年 - 1376年 |
|
|
出生 | 1351年? |
死去 | 1376年 |
配偶者 | ドブロティツァの娘 |
父親 | 東ローマ皇帝ヨアニス5世パレオロゴス |
母親 | ヘレネー・カンタクゼネ |
ミハイル・パレオロゴス(Μιχαήλ Παλαιολόγος, Michael Palaiologos, 1351年? - 1376年)は、東ローマ帝国皇帝ヨアニス5世パレオロゴスの第三子、トラキア・ザゴラ専制公(在位:1371年 - 1376年)。古典式慣例表記ではミカエル・パレオロゴス。
生涯
波乱の時代を生きた皇帝の息子であるが、政治的に重要な地位を占めることもなく早世若死したため、記録が少ない。生年月日も明確ではないが、次兄マヌイル2世が1350年生まれであることは確実なのでその翌年、1351年前後であろうと考えられている。また、名前をディミトリオス(デメトリオス)と記す史書もある。
1371年、父ヨアニス5世はミハイルを黒海西岸の帝国領ザゴラ地方(中心都市はメシンヴリア)に行政官として派遣する。この地域は当時帝国とブルガリア帝国、オスマン朝との間で係争地となっており、ミハイルは国防強化の任務を帯びることになった。1373年に外交使節としてトレビゾンド帝国に派遣されるが、特に成果を上げることもなく短期間で帰国した。彼は任地でブルガリア人豪族ドブロティツァの娘と結婚したが、間もなく妻の兄弟によって暗殺されてしまった。
(本項目の表記は中世ギリシア語の発音に依拠した。古典式慣例表記については各リンク先の項目を参照)
脚注
参考文献
関連項目
「ミハイル・パレオロゴス (東ローマ皇子)」の例文・使い方・用例・文例
- ミハイル・パレオロゴスは、コンスタンティノーブルの皇帝であるバシレウスとなった。
- ミハイル・パレオロゴス_(東ローマ皇子)のページへのリンク