フィッツウィリアム子爵とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > フィッツウィリアム子爵の意味・解説 

フィッツウィリアム子爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 15:05 UTC 版)

フィッツウィリアム子爵(フィッツウィリアムししゃく、: Viscount FitzWilliam)は、アイルランド貴族の爵位。1629年に創設され、1833年に廃絶した。

歴史

ダブリン県出身のトマス・フィッツウィリアム英語版(1581–1650)は1629年8月5日にアイルランド貴族であるダブリン県ソーンキャッスルのフィッツウィリアム男爵とダブリン県メリオンのフィッツウィリアム子爵Viscount FitzWilliam of Meriyounge, co. Dublin)に叙された[1]。彼はカトリック騎士党の一員であり、1641年10月23日にアイルランド反乱英語版が勃発するとカトリックであることを理由に政府軍への参加を拒否されたため、代わりにイングランドに向かってチャールズ1世を支援した[1]。1645年5月1日にチャールズ1世よりイングランド貴族であるウォリントン伯爵への叙爵の許可を与えられたが、叙爵の特許状が正式に発行されることはなかった[1]

2代子爵オリヴァー・フィッツウィリアム英語版(1600s–1667)も1645年のネイズビーの戦いなどで国王軍の一員として参戦した騎士党の1人であり、王政復古の後の1661年4月20日にアイルランド貴族であるティアコネル伯爵に叙された[1]。彼は3度結婚したが男子をもうけず、ティアコネル伯爵位は1代で廃絶した[2]

5代子爵リチャード・フィッツウィリアム(c.1677–1743)ホイッグ党の政治家で、アイルランド貴族院議員とグレートブリテン庶民院議員を務めた[2]。7代子爵リチャード・フィッツウィリアム(1745–1816)もアイルランド貴族院議員とグレートブリテン庶民院(のち連合王国庶民院)議員を務めたほか、書物や絵画を収集しており、王立協会フェローに選出された[3]。7代子爵の死後、遺言状に基づきコレクションがケンブリッジ大学に寄贈され、このコレクションを元にフィッツウィリアム美術館が開設された[3]。またそれ以外の遺産の大半は5代子爵の娘の曽孫にあたるシドニー・ハーバート閣下(1810–1861)が相続した[3]。シドニーはのちにリーのハーバート男爵英語版に叙された[3]

フィッツウィリアム子爵位は7代子爵の2人の弟が相次いで継承したが、1833年に9代子爵が死去すると爵位は廃絶した[4]

フィッツウィリアム子爵(1629年)

  • 初代フィッツウィリアム子爵トマス・フィッツウィリアム英語版(1581年 – 1650年)
  • 第2代フィッツウィリアム子爵オリヴァー・フィッツウィリアム英語版(1600年代 – 1667年)

ティアコネル伯爵(1661年)

  • 初代ティアコネル伯爵オリヴァー・フィッツウィリアム英語版(1600年代 – 1667年)

フィッツウィリアム子爵(1629年、復帰)

出典

参考文献

関連項目

  • フィッツウィリアム伯爵英語版 - 爵位名と苗字が同じフィッツウィリアムであるものの、イングランドの家系でフィッツウィリアム子爵家とは無関係



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  フィッツウィリアム子爵のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フィッツウィリアム子爵」の関連用語

フィッツウィリアム子爵のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フィッツウィリアム子爵のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフィッツウィリアム子爵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS