ヒューボスコーエン (初代ファルマス子爵)とは? わかりやすく解説

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ヒュー・ボスコーエン (初代ファルマス子爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 19:23 UTC 版)

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初代ファルマス子爵ヒュー・ボスコーエン英語: Hugh Boscawen, 1st Viscount Falmouth PC1680年頃 – 1734年10月25日)は、コーンウォール出身の政治家、貴族。ホイッグ党所属の庶民院議員(在任:1702年 – 1720年)。

生涯

庶民院議員就任以前の経歴

エドワード・ボスコーエン英語版とジェイル・ゴドルフィン(Jael Godolphinフランシス・ゴドルフィン英語版の娘)の息子として、1680年頃に生まれた[1]。1697年4月、ケンブリッジ大学キングス・カレッジに入学した[2]。1698年9月、国王ウィリアム3世と寵臣の初代アルベマール伯爵アーノルド・ヴァン・ケッペルによりグロスター公爵ウィリアム王子英語版寝室宮内官英語版に任命され(1700年まで在任)、200ポンドの年収を得た[3]。1701年にネーデルラントオーストリアを旅し、海外滞在中の5月に伯父ヒュー・ボスコーエン英語版が死去すると、年収3,000ポンドを得られるコーンウォールにおける領地を継承した[3]。ヒューはこのときウィーンジョージ・ステップニー英語版からフランス語を学んでいたが、急遽帰国することになり、7月にデン・ハーグに到着、11月にはコーンウォールにあるセント・モーズ城英語版の長官に就任した[3]

アン女王の治世において

母が初代ゴドルフィン男爵シドニー・ゴドルフィン(1706年にゴドルフィン伯爵に叙爵)の姉妹で、妻の母が初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルの姉妹にあたるためか、1702年にカンバーランド公爵ジョージ王配の寝室宮内官(年収400ポンド、1708年まで在任)に任命された[3]。同年の総選挙でトレゴニー選挙区英語版から出馬して当選、議会ではコート派(宮廷派)として投票した[3]

1705年イングランド総選挙ではコーンウォールにおける地盤を固め、コーンウォール選挙区英語版で当選した[3]。このとき、トゥルーロ選挙区英語版でも当選したが、コーンウォール選挙区の代表として議員を務めることを選択した[4]。議会でも宮廷派のままで、1707年から1708年の会期においては(ホイッグ党政権にもかかわらず)ジャントーが野党に回ったが、ヒューはこのとき「大蔵卿のホイッグ党員」(Lord Treasurer's Whig、大蔵卿はゴドルフィン伯爵の役職)とされ、与党側のままであった[3]。そのため、1708年イギリス総選挙の直前に褒賞として錫鉱区長官英語版(年収1,000ポンド)に終身職として任命された[3]。総選挙ではコーンウォールにおける自身の影響力に加えて宮廷の影響力も手中にしたため、コーンウォールの選挙区の多くで活動した[3]

1710年イギリス総選挙ではヘンリー・サシェヴェレル英語版の弾劾裁判によりホイッグ党逆風の情勢であり、ヒューはサシェヴェレルの裁判に欠席したにもかかわらず逆風の影響を受け、コーンウォール選挙区で落選してしまい、代わりにトゥルーロ選挙区で当選して議席を保った[3]。同年にはセント・モーズ城長官からも解任された[3]。1711年12月に「スペインなくして講和なし」の動議に賛成票を投じた後、1713年5月にフランスワイン関税法案に反対した[3]1713年イギリス総選挙ではペンリン選挙区英語版で当選、1714年3月にリチャード・スティール英語版の議会追放に反対票を投じた[3]

ハノーヴァー朝において

ハノーヴァー朝では重用され、1714年にセント・モーズ城長官に復帰したほか、同年に王室監査官英語版に就任、同年10月12日に枢密顧問官に任命された[3]。議会ではアン女王の治世に政権を担った大臣への追及に深く関与、第2代オーモンド公爵ジェームズ・バトラーの弾劾動議に賛成した[5]1715年ジャコバイト蜂起では第2代カートレット男爵ジョン・カートレットとともにコーンウォールで対処にあたった[5]

1717年から1720年までのホイッグ党分裂期では政府側(第1次第2次スタンホープ=サンダーランド内閣)につき、アイルランド副大蔵卿英語版(毎年3,000ポンドの収入が得られる官職)の1人に任命された[5]。1717年12月にジョゼフ・アディソンの後任として国務大臣への就任が噂され(実現せず)、1719年12月に貴族法案を支持した[5]。1720年6月9日、王室監査官解任の補償として[3]グレートブリテン貴族であるコーンウォール州におけるボスコーエン・ローズ男爵とコーンウォール州におけるファルマス子爵に叙された[1]

ジョージ2世の治世では妻が寝室女官(lady of the bedchamber)への任命を目指し、寝室女官のシャーロット・クレイトン英語版に贈賄しようとしたが失敗した[5][6]。ファルマス子爵は1733年まで貴族院で与党側として行動したが、やがて不満がたまり野党に回り、1734年イギリス総選挙直前に首相ロバート・ウォルポールが宮廷のコーンウォールにおける影響力をファルマス子爵から取り上げリチャード・エッジカムに与えた[5]。1734年4月、アイルランド副大蔵卿を辞任した[5]

1734年10月25日にトレフュージスで死去、11月6日に埋葬された[1]。同名の息子ヒューが爵位を継承した[1]

人物

同時代の人物からの評価が低く、「ファルマス卿」(Lord Falmouth)をもじった「ファウルマス卿」(Lord Foulmouth、「臭い口」の意味)という不名誉なあだ名をつけられた[5]。また、1733年6月の南海会社への調査提案をめぐった弁論において、演説では政府を支持したが投票では反対し、第2代ハーヴィー男爵ジョン・ハーヴィーから「ファルマス卿は(そのように行動することで)大臣たちにできるだけ損害を与えようとした」と皮肉を言われた[5]

家族

1700年4月23日、シャーロット・ゴドフリー(Charlotte Godfrey、1754年3月22日没、チャールズ・ゴドフリー英語版の娘)と結婚[1]、5男4女をもうけた[7]

  • ルーシー(1784年1月17日没) - 1746年8月18日、チャールズ・フレデリック英語版と結婚、子供あり
  • シャーロット(1702年8月5日 – 1735年4月4日) - 1720年2月11日、第4代ドロヘダ伯爵ヘンリー・ムーアと結婚
  • アン(1749年5月11日埋葬) - 1726年、第6代準男爵サー・セシル・ビショップ英語版と結婚、子供あり
  • メアリー(1749年9月19日没) - 1732年8月17日、第2代準男爵サー・ジョン・エヴリン英語版と結婚、子供あり
  • ヒュー(1707年 – 1782年) - 第2代ファルマス子爵
  • エドワード(1711年 – 1761年) - 海軍提督。第3代ファルマス子爵ジョージ・エヴリン・ボスコーエン英語版の父
  • ジョージ英語版(1712年 – 1775年) - 陸軍軍人
  • ジョン(1714年 – 1767年) - 庶民院議員
  • ニコラス(1720年8月16日 – 1793年7月4日) - 聖職者

出典

  1. ^ a b c d e Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 246–247.
  2. ^ "Boscawen, Hugh (BSCN697H)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (2002). "BOSCAWEN, Hugh II (c.1680-1734), of Tregothnan, Cornw.". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年2月1日閲覧
  4. ^ Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (2002). "Truto". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年2月1日閲覧
  5. ^ a b c d e f g h i Cruickshanks, Eveline (1970). "BOSCAWEN, Hugh (c.1680-1734).". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年2月1日閲覧
  6. ^ Courtney, William Prideaux (1886). "Boscawen, Hugh" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). 5. London: Smith, Elder & Co. p. 420.
  7. ^ "Falmouth, Viscount (GB, 1720)". Cracroft's Peerage (英語). 20 September 2017. 2020年2月3日閲覧
イングランド議会 (en
先代:
フランシス・ロバーツ英語版
ヒュー・フォーテスキュー英語版
庶民院議員(トレゴニー選挙区英語版選出)
1702年 – 1705年
同職:ジョセフ・ソール
次代:
ジョン・トレヴァニオン
サー・フィリップ・メドウズ英語版
先代:
サー・フィリップ・メドウズ英語版
ヘンリー・ヴィンセント
庶民院議員(トゥルーロ選挙区英語版選出)
1705年
同職:ヘンリー・ヴィンセント
次代:
ペレグリン・バーティー英語版
ヘンリー・ヴィンセント
先代:
ジェームズ・ブラー
サー・リチャード・ヴィヴィアン準男爵英語版
庶民院議員(コーンウォール選挙区英語版選出)
1705年 – 1707年
同職:サー・リチャード・ヴィヴィアン準男爵英語版
次代:
グレートブリテン議会
グレートブリテン議会英語版
先代:
イングランド議会
庶民院議員(コーンウォール選挙区英語版選出)
1707年 – 1710年
同職:サー・リチャード・ヴィヴィアン準男爵英語版 1707年 – 1708年
ジェームズ・ブラー 1708年 – 1710年
次代:
ジョージ・グランヴィル
ジョン・トレヴァニオン
先代:
ヘンリー・ヴィンセント
ロバート・ファーニーズ英語版
庶民院議員(トゥルーロ選挙区英語版選出)
1710年 – 1713年
同職:ヘンリー・ヴィンセント
次代:
トマス・ヘア英語版
ウィリアム・コリヤー
先代:
サミュエル・トレフュージス
アレクサンダー・ペンダーヴス英語版
庶民院議員(ペンリン選挙区英語版選出)
1713年 – 1720年
同職:アレクサンダー・ペンダーヴス英語版 1713年 – 1714年
サミュエル・トレフュージス 1714年 – 1720年
次代:
サミュエル・トレフュージス
リアルトン子爵英語版
公職
先代:
リアルトン子爵英語版
錫鉱区長官英語版
1708年 – 1734年
次代:
リチャード・エッジカム
先代:
サー・ジョン・ストンハウス準男爵英語版
王室監査官英語版
1714年 – 1720年
次代:
ポール・メシュエン
グレートブリテンの爵位
爵位創設 ファルマス子爵
1720年 – 1734年
次代:
ヒュー・ボスコーエン



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