ディール・シャムシェル・ラナとは? わかりやすく解説

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ディール・シャムシェル・ラナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 09:12 UTC 版)

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ディール・シャムシェル・ラナ

ディール・シャムシェル・ラナ(Dhir Shamsher Rana, 1828年 - 1884年10月14日)は、ネパール王国政治家軍人。事実上の首相でもあった。ディール・シャムシェル・クンワル(Dhir Shamsher Kunwar)とも呼ばれる。

生涯

1828年バール・ナラシンハ・クンワルの息子として生まれた[1]

1877年、兄ジャンガ・バハドゥル・ラナが死亡すると、別の兄ラノッディープ・シンハ・ラナが首相となった[2]。だが、ディールが実権を握り、事実上の首相となった。

だが、ディール・シャムシェルの専横を嫌う皇太子トライローキャ・ビクラム・シャハ、その弟ナレンドラ・ビクラム・シャハは王族、タパ、パンデ、バスネット、ビシュタなど貴族らと組み、その追い落としを計画した。だが、トライローキャが急死したのち、ディール・シャムシェルはナレンドラ王子を追放、味方した大勢の貴族を殺害、追放、財産没収し、絶大な権力を手にした[3]

1884年12月24日、ディール・シャムシェルはパシュパティナートの川岸で魚を食べていた際、の骨がのどに刺さって死亡した[4][5]。死の間際、息子らに「何としてでも王権を握れ、さもなければ悲運を招く」と言い残した[6]

息子の一覧

合計で17人の息子がおり[7]、そのうち5人が首相となった。また、ラノッディープ・シンハ・ラナ殺害後、彼らは叔父「ジャンガ・バハドゥル」の名を自身の名に付け加えている。

脚注

  1. ^ Lambjang and Kaski 2
  2. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.564
  3. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、pp.564-565
  4. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.565
  5. ^ Lambjang and Kaski 2
  6. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.565
  7. ^ Lambjang and Kaski 2

参考文献

  • 佐伯和彦 『世界歴史叢書 ネパール全史』 明石書店、2003年。 

関連項目




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