ダマスカス包囲戦 (1148年)とは? わかりやすく解説

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ダマスカス包囲戦 (1148年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 19:08 UTC 版)

ダマスカス包囲戦(ダマスカスほういせん、仏語: Siège de Damas)とは、1148年7月24日〜28日の5日間行われたダマスカスに対する包囲戦である。第2回十字軍遠征における主要な戦闘であり、十字軍側の内部対立により十字軍の敗北で終結した。ローマ教皇エウゲニウス3世・神学者ベルナルドゥスによる呼び掛けに応じて聖地への遠征を行ったこの十字軍軍団は、仏王ルイ7世独王コンラート3世が中心となって率いていた。しかし両者共に、アナトリア半島進軍中に甚大な被害を被り聖地にたどり着く頃には軍勢のほとんどを喪失していた。第2回十字軍遠征の当初の攻略目標はエデッサの奪還・エデッサ伯国の再建国であったが、当時のエルサレム王国ではダマスカスの制圧が最優先事項と見なされていた。それ故に、全ての諸侯が聖地に到着した後にアッコで開催された軍議英語版において、攻略目標の変更が取り決められ、十字軍の遠征先はエデッサからダマスカスに変更された。


  1. ^ ボレスワフ4世はこれまでにも、神聖ローマ帝国によるスラブ民族のルティシア人英語版討伐戦争にも参加しドイツ側を支援していた。
  2. ^ ヴラジスラフ2世はコンスタンティノープルで進軍を取りやめ、突如ボヘミアに帰還している。
  3. ^ ギヨームの記述によると、この試みの最中、コンラート帝は目覚ましき功績を成し遂げたと伝わっている。皇帝はこの戦闘において、激しく果敢に抵抗するトルコ人騎士を驚くべき方法で打ち倒したと伝わる。コンラート帝の一振りで、キュイラス英語版と呼ばれる鎧を着込んでいたにもかかわらず、敵は体から頭・首・腕の付いたままの左肩・そして側面の一部分まで切り裂かれたという。この事実を直接目撃した者のみならず、人からこの事実を又聞きしただけの者ですら恐怖の底に陥ったという。ダマスカスで決死の抵抗を続けていた民衆は希望を失い絶望したと伝わる"[21]
  4. ^ 初代ウスター伯ウォールラン英語版はこの撤退戦において批難に晒された諸侯の1人である[30]
  1. ^ a b Runciman 1952, pp. 228–229.
  2. ^ Phillips 1994, pp. 141–142.
  3. ^ Tyerman 2019, pp. 160–161.
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  10. ^ Schmieder & O'Doherty 2015, pp. 121–138.
  11. ^ Cowan, Mackay & Macquarrie 1983, p. 18.
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  20. ^ a b c Nicolle 2009, p. 59.
  21. ^ William of Tyre 1943, p. 190.
  22. ^ a b c d e The Siege of Damascus, 1148 CE”. World History Encyclopedia. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  23. ^ Nicolle 2009, p. 67.
  24. ^ The Second Crusade: The Siege of Damascus, 1148”. cornell.edu. 2021年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月4日閲覧。
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  26. ^ ギヨーム・ド・ティール, XVII. 7.
  27. ^ Baldwin 1969, p. 510.
  28. ^ Davies 2008, p. 266.
  29. ^ Sandra Alvarez (2014年3月16日). “Looking Back on the Second Crusade: Some Late Twelfth-Century English Perspectives”. deremilitari.org. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  30. ^ Schmieder & O'Doherty 2015, p. 125.
  31. ^ Davies 2008, pp. 261–262.
  32. ^ Runciman 1952, pp. 232–234.
  33. ^ Runciman 1952, p. 277.
  34. ^ Selina Denman (2016年5月25日). “The city gardener: the damask rose's history and appeal”. The National News. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  35. ^ Wright 1895, p. 226.


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