セミョーン・ミハイロヴィチ_(グルホフ公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > セミョーン・ミハイロヴィチ_(グルホフ公)の意味・解説 

セミョーン・ミハイロヴィチ (グルホフ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/01 03:32 UTC 版)

セミョーン(シメオン)・ミハイロヴィチロシア語: Семён(Симеон) Михайлович)はグルホフ公家、またノヴォシリ公家の祖となった人物である。1246年よりグルホフ公。

『バルハトナヤ・クニーガ(ru)』(直訳:ベルベットの本。ロシア貴族の系譜を編纂した書籍。1587年編。)に基づけば[1]、セミョーンはチェルニゴフ公ミハイルの三男であり、父ミハイルの死後チェルニゴフ公国を他の兄弟たちと分割相続して形成されたグルホフ公国の初代の公である。また同書によれば、セミョーンの子のロマン(ru)がノヴォシリ公、さらにオドエフ公の祖ということになる。

ただし、ノヴォシリ公ロマンは年代記では1375年の項に名が見られる人物であり、セミョーンとロマンの間には年齢差が開きすぎている。よって、セミョーンをチェルニゴフ公ミハイルの子とするなら、ロマンはそのセミョーンの子ではない可能性が高い[2]。一方、セミョーンの親をミハイルであるとする史料には、他に『リューベチ・シノディク』がある。これらの史料の不整合性に対して、『リューベチ・シノディク』のミハイルはチェルニゴフ公ミハイルではなくその孫である(したがって、チェルニゴフ公ミハイル - セミョーン - ミハイル - セミョーン- ロマンという、一代ごとに同じ名前を交互に繰り返した家系である)とする説がある[3][2]

いずれにせよ、セミョーンの子孫がグルホフ公国とその分領公国を相続・統治したと考えられるが、具体的にセミョーンがどのような統治を行ったかについては記されていない。また、他にセミョーンの子とされる人物には、グルホフ公ミハイル[2]、ノヴォシリ公アレクサンドル(ru)[2](1326年没)、ウスチエ公フセヴォロド[2]がいる。

出典

  1. ^ Родъ князя Михайла Черниговского // Родословная книга князей и дворян российских и выезжих (Бархатная книга). Часть I. — М.: Университетская типография Н. Новикова, 1787. — С. 179—180.
  2. ^ a b c d e Зотов Р. В. О черниговских князьях по Любецкому синодику. — С. 105—111.
  3. ^ Квашнин-Самарин Н. По поводу Любецкаго синодика. Изданiе Императорскаго Общества исторiи и древностей Россiйских. — М., 1874. — С. 9.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「セミョーン・ミハイロヴィチ_(グルホフ公)」の関連用語

セミョーン・ミハイロヴィチ_(グルホフ公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



セミョーン・ミハイロヴィチ_(グルホフ公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのセミョーン・ミハイロヴィチ (グルホフ公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS