ジョヴァンニ・アントニオ・オルシーニ・デル・バルツォとは? わかりやすく解説

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ジョヴァンニ・アントニオ・オルシーニ・デル・バルツォ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/21 02:02 UTC 版)

ターラント公ジョヴァンニ・アントニオ、17世紀のリトグラフ

ジョヴァンニ・アントニオ(ジャンアントニオ)・オルシーニ・デル・バルツォGiovanni Antonio(Giannantonio) Orsini del Balzo, 1401年9月9日 - 1463年11月15日)は、南伊ナポリ王国の貴族、コンドッティエーレターラント公、バーリ公爵、レッチェアチェッラコンヴェルサーノソレートマテーラウジェントの伯。

ターラント公ライモンド・オルシーニ・デル・バルツォと、レッチェ女伯マリー・ダンギャンの間の長男。1406年父が死ぬと、父と緊張関係にあったナポリ王ラディズラーオ1世は未亡人となった母マリーを妃に迎え、それに伴って両親の所領は全て王の所有に帰した。その王位を継いだジョヴァンナ2世女王は、ターラント公領を再婚相手のラ・マルシュ伯ジャック2世・ド・ブルボンに一旦は譲ったが、ラ・マルシュ伯を放逐した後の1421年5月4日、ターラント公領をジョヴァンニ・アントニオに与えた。彼はこの受封によりナポリ王国で最も勢威ある諸侯に昇格した。

ジョヴァンナ2世の後継者の座をめぐるアラゴン家のアルフォンソ5世とアンジュー家のルネジャン2世父子の内戦では前者を支持し、その功からナポリ王国大司馬とバーリ公爵領を授けられた。しかしアルフォンソ5世没後はその私生児ドン・フェランテの即位に反対して宮廷を去り、アンジュー家支持派の頭目となる。フェランテの妻イザベルが自身の姪で相続人だったこともあり、後にフェランテと和解した。1463年アルタムラ城英語版[1]、おそらくフェランテ王の刺客だったパオロ・トリカリコ(Paolo Tricarico)に絞殺された。

死後、遺産は最終的に姪を通じてナポリ王家(アラゴン家)に回収された。

結婚と子女

1417年教皇マルティヌス5世の姪でアマルフィ公爵の娘であるアンナ・コロンナと結婚したが、間に子は無かった。

以下の私生児が知られる。

  • カテリーナ - コンヴェルサーノ女伯、第7代アトリ公爵ジュリオ・アントニオ・アクアヴィーヴァと結婚
  • マリーア・コンクエスタ - ウジェント女伯、初代ナルド公爵アンジルベルト・デル・バルツォと結婚
  • マルゲリータ - カタンツァーノ伯アントニオ・チェンテレスと結婚
  • フランチェスカ - サポナーラ伯ジャーコポ・サンセヴェリーノと結婚
  • ベルトルド - サリーチェ男爵、レッチェ伯
  • 名称不明の娘 - ミレート伯ジャコモ・サンセヴェリーノと結婚

引用・脚注

  1. ^ storie-inedite p. 50 - note n. 63

参考文献

先代
ジャック
ターラント公
1399年 - 1406年
次代
イザベル



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