エレクレ2世 (ムフラニ公)とは? わかりやすく解説

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エレクレ2世 (ムフラニ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/29 10:16 UTC 版)

エレクレ2世
ერეკლე II

ムフラニ公
在位期間
1717年1719年
先代 パプナ
次代 レヴァン

出生 1666年
死亡 1723年
家名 ムフラニ家グルジア語版
父親 コンスタンティネ1世
母親 ダレジャン・アバシゼwikidata
子女
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ムフラニ公エレクレ2世グルジア語: ერეკლე II მუხრანბატონიグルジア語ラテン翻字: Erekle II Mukhranbatoni1666年1723年)は、カルトリ王国バグラティオニ王家グルジア語版の分家であるムフラニ家グルジア語版タヴァディグルジア語版(貴族)。1717年から1719年までムフラニバトニ)を務め、内カルトリグルジア語版サルダリ(司令官)およびカルトリ宮廷のムサフルトゥフツェシ(宮内長官)を兼任した。

生涯

エレクレの父はムフラニ公コンスタンティネ1世、母はイメレティ王国東部の有力貴族グアナ・アバシゼwikidataの娘ダレジャン・アバシゼwikidataであった[1]。エレクレはカルトリ王ヴァフタング6世サファヴィー朝に投獄された後に起こった内紛に巻き込まれた。最終的に1719年、エレクレはヴァフタング6世の子バカル英語版王子の命令により、その地位を追われ、盲目にされた[2]。同年、ムフラニの領地はエレクレの甥レヴァンに引き継がれた[3]

家族

エレクレはヘルヘウリゼ家グルジア語版の娘と結婚し、息子2人をもうけた[1]

  • マムカ英語版(? – 1736年)
  • ダヴィト(? – 1729年)

脚注

  1. ^ a b Metreveli, Roin, ed. (2003). ბაგრატიონები. სამეცნიერო და კულტურული მემკვიდრეობა (グルジア語). Tbilisi: Neostudia. p. Table 8. ISBN 99928-0-623-0.
  2. ^ ბაგრატიონები : სამეცნიერო და კულტურული მემკვიდრეობა, თბილისი: ნეოსტუდია, 2003, ISBN 99928-0-623-0
  3. ^ Bagrationi, Vakhushti (1976). Nakashidze, N.T. (ed.). История Царства Грузинског (PDF) (ロシア語). Tbilisi: Metsniereba. p. 59.



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