エルミニオ・マサントニオとは? わかりやすく解説

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エルミニオ・マサントニオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/30 10:18 UTC 版)

エルミニオ・マサントニオ
名前
ラテン文字 Herminio Masantonio
基本情報
国籍 アルゼンチン
生年月日 1910年8月5日
出身地 ブエノスアイレス州
没年月日 1956年9月11日(満46歳没)
選手情報
ポジション FW
クラブチーム1
クラブ 出場(得点)
1931-1943,1945
1943
1944
CAウラカン
CAデフェンソール
CAバンフィエルド
349 (254)
11 (3)
9 (2)
代表歴
1935-1942 アルゼンチン 19 (21)
1. 国内リーグ戦に限る。現在。
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj
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エルミニオ・マサントニオHerminio Masantonio1910年8月5日 - 1956年9月11日)はアルゼンチンブエノスアイレス州エンセナダ出身のサッカー選手。ポジションはFW

経歴

アルゼンチンサッカーが凋落していた当時、1931年にデビュー。キャリアのほとんどをCAウラカンで過ごし、プリメーラ・ディビシオンの歴史でも屈指のゴールゲッターとなった。CAウラカンでは254得点を挙げてクラブ最多得点記録を保持するほか、プリメーラで358試合に出場して挙げた256得点は、293得点を挙げたアルセニオ・エリコアンヘル・ラブルナに次ぐ3番目の得点記録である。

アルゼンチン代表としても南米選手権に2度(1935年、1942年)出場。それぞれ4得点、7得点を挙げて大会得点王となった[1]。同大会での11得点はジジと並んで12位タイ、2大会にしか出場していない選手の中ではトップの数字である[2]。アルゼンチン代表では、1試合あたり1得点を超える高いゴールアベレージを誇った。

1943年にはウルグアイのクラブCAデフェンソールへ移籍するも、短期間でアルゼンチンへと戻りCAバンフィエルドでプレーした。1945年、キャリアをスタートさせたCAウラカンで引退。

脚注

  1. ^ 1942年大会はホセ・マヌエル・モレノも7得点を記録し、得点王となった。
  2. ^ 歴史 rsssf Copa América topscorers



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