ウラジーミル・マルコフニコフとは? わかりやすく解説

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ウラジーミル・マルコフニコフ

(ウラジミール・マルコウニコフ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/15 05:16 UTC 版)

ウラジーミル・マルコフニコフ
19世紀後期の写真
生誕 (1838-12-22) 1838年12月22日
ロシア帝国ニジニ・ノヴゴロド州クニャギニノ
死没 1904年2月11日(1904-02-11)(65歳)
ロシア帝国サンクトペテルブルク
研究機関 カザン大学
サンクトペテルブルク大学
オデッサ大学
出身校 カザン大学
博士課程
指導教員
アレクサンドル・ブートレロフ
プロジェクト:人物伝
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ウラジーミル・ワシリエヴィチ・マルコフニコフВлади́мир Васи́льевич Марко́вников、ラテン翻字: Vladimir Vasilevich Markovnikov、1838年12月22日 - 1904年2月11日)は、ロシア化学者である。

マルコフニコフは、最初は経済学を学んだが、のちにアレクサンドル・ブートレロフの助手となり、カザン大学サンクトペテルブルク大学で化学を学んだ。1860年から2年間ドイツへ留学して、エミール・エルレンマイヤーヘルマン・コルベのもとで学んだ。ロシアに帰国して、1869年に博士号を取得し、カザン大学の教授に就任した。1871年からオデッサ大学の教授を務め、その2年後からモスクワ大学の教授を務めた。

マルコフニコフは、彼が1869年に発見したマルコフニコフ則でよく知られている。この規則は、付加反応生成物の分子構造の予測に有用である。彼はこの規則をロシア語以外で公開しなかったので、彼の仕事の大部分は1889年まで知られていなかった[1]

さらにマルコフニコフは、1879年に6炭素原子以上の炭素環、4炭素原子の炭素環を発見し、1889年に7炭素原子の炭素環を発見することによって、有機化学に貢献した。

出典

  1. ^ Hughes, Peter (2006). “Was Markovnikov's Rule an Inspired Guess?”. The Journal of Chemical Education 83 (8): 1152–1154. Bibcode2006JChEd..83.1152H. doi:10.1021/ed083p1152. 

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