イヴァン・フセヴォロドヴィチ (ホルム公)とは? わかりやすく解説

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イヴァン・フセヴォロドヴィチ (ホルム公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/24 06:10 UTC 版)

イヴァン・フセヴォロドヴィチ
Иван Всеволодович
ホルム(クラスヌィー・ホルム)公
モスクワ大公女アナスタシアとの結婚
在位 1364年 - 1402年

死去 1402年
配偶者 スーズダリ・ニジェゴロド大公ボリスの娘
  アナスタシア・ドミトリエヴナ
家名 リューリク家
父親 ホルム公フセヴォロド
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イヴァン・フセヴォロドヴィチロシア語: Иван Всеволодович、? - 1402年)は、初代ホルム(クラスヌィー・ホルム)公フセヴォロド(ru)の子である。兄ユーリー(ru)と共にホルム公国を統治した。在位:1364年 - 1402年。

生涯

イヴァンとユーリーは、1364年の父の死後よりホルム公国を相続した。なお、いくつかの伝承によれば、イヴァンは1380年のクリコヴォの戦いに参加したと伝えられている。

16世紀中盤、ツァーリイヴァン4世の治世に編集された絵入り年代記集成の1396年の項には、イヴァンの最初の妻の死に関する記述がある。それによれば、イヴァンの妻はスーズダリ・ニジェゴロド大公ボリス(ru)の娘であり、トヴェリ教会堂に葬られた人物であった。

1397年、モスクワ大公ヴァシリー1世の姉妹・アナスタシヤとの婚儀のため、モスクワへ赴いた。これに際し、この年イヴァンはトルジョークを、翌年にはプスコフを与えられ、同地を統治した。ただし、プスコフの統治期間は4ヶ月のみだった。1400年、トヴェリ大公ミハイルが死ぬと、次のトヴェリ大公イヴァンと和解し、トヴェリへと戻った。

和解によって再びホルム公国を領有するが、1402年に死亡した。死の直前にスヒマ(ru)となり、イグナシーという名を得た。遺言により、イヴァンの有したホルム公国領は、トヴェリ大公イヴァンの子アレクサンドルに遺贈された。

参考文献




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