アレクサンダー・オジルビーとは? わかりやすく解説

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アレクサンダー・オジルビー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 04:11 UTC 版)

アレクサンダー・"アレック"・オジルビー(1919年頃)

アレクサンダー・"アレック"・オジルビー(Alexander "Alec" Ogilvie 、1882年6月8日 - 1962年6月18日)はイギリスのパイロットである。いくつかの航空レースに参加し、動圧を利用する航空機用の速度計を発明した。

ロンドンに生まれた。ラグビー校、ケンブリッジ大学で学んだ [1]。1908年にフランスでライト兄弟が飛行するのを見て、その2ヶ月後までにはライト機を注文した。1909年にライト機が届くまでにグライダーで飛行訓練をうけた。サセックスに飛行場を作り、各地の飛行大会に参加した。1909年5月11日にイギリス飛行クラブの会員となり、1910年5月24日に7人目の飛行免許を取得した。1910年にライト機で、アメリカ合衆国で開かれた、ゴードン・ベネット・カップに参加し、3位の成績を得て、イギリス飛行クラブからシルバーメダルを受賞した[2] 。1911年のレースでもライト機で88km/hの平均速度で4位に入賞した。 1909年11月に気圧を使った航空機の速度計の特許を得た[3]。これは後にイギリス海軍航空隊で採用された。1911年にキティーホークのオービル・ライトのグライダー実験に参加した。1914年までライト機で飛行し、1913年には作家のH.G.ウェルズを同乗させて飛行した。

1915年2月19日に、イギリス海軍航空隊の将校になり、パイロット養成学校の責任者となり、その後、ダンケルクの飛行修理場の責任者を経て、1916年12月に航空司令(ウィング・コマンダー)となった。1917年3月5日に航空委員会のメンバーになり、技術部門を取り仕切った[4]。1918年に海軍航空隊は空軍に統合され空軍に移籍し、複座の航空機の大部分に搭乗した。1918年6月8日、事故で負傷した。1918年に大英帝国勲章(OBE)、翌年、CBEを受勲した。

1919年に軍を離れ、航空技術のコンサルタントの会社"Ogilvie and Partners Ltd."を開いた。1962年ハンプシャーのリングウッドで没した。

参考文献

  1. ^ Turner, Charles Cyril (1927). The Old Flying Days. Ayer Publishing. p. 85. ISBN 0-405-03783-X 
  2. ^ Flight 28 May 1910
  3. ^ http://www.wright-brothers.org/History_Wing/History_of_the_Airplane/Decade_After/Faster_Higher_Farther/Faster_Higher_Farther.htm
  4. ^ RAF officers' service records 1918 - 1919—Ogilvie, Alexander"



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