アルバート・フレデリック・ママリーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アルバート・フレデリック・ママリーの意味・解説 

アルバート・フレデリック・ママリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/29 01:15 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
アルバート・フレデリック・ママリー

アルバート・フレデリック・ママリーAlbert Frederick Mummery 1855年9月10日 - 1895年8月24日?)は、イギリス登山家である[1]アルプス銀の時代を代表するスターとして知られる[1]

1855年9月10日イギリスケント州ドーバーに産まれた[1]。兄弟と製革業に従事しつつ、経済学の研究生活をしこの分野で著作も出している[1]。強度の近視で体躯も決して頑強ではなかったが、1871年ブルイユからツェルマットへテオドール峠を越えた時にアルプスに魅せられて登山家になり、1879年マッターホルンのツムット稜初登攀に成功して名声を得た[1]。その後コル・ド・リオン初登攀、グレポン初登頂などで名声を高め、1888年コーカサスに遠征してディフタウに初登頂した[1]

1888年に英国山岳会会員に推挙されたが、この頃入会は至難であり、推薦委員会で反対の黒球が1割あれば推薦されず、保守派登山家から誤解や偏見を受けていたママリーは一度拒否された[1]。1892年以後はガイドレス登山に変わり1893年ルカン針峰初登頂、1894年モンブランのブレンバ稜ガイドレス初登攀などを成し遂げた[1]

1895年ナンガ・パルバットの登頂を目指すが8月24日を最後に消息を絶った[1]

山道具への貢献

現在定着している、クライミングロープを結び合う人数は2人であるが、これを誰よりも早く主張したのがママリーであった[1]。また当時としては軽量[2]だったママリー・テントを考案[2]した。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 『山への挑戦』pp.19-26「登山という挑戦(銀の時代)」。
  2. ^ a b 『山への挑戦』pp.187-208「登山道具は語る(テント)」。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アルバート・フレデリック・ママリー」の関連用語

アルバート・フレデリック・ママリーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アルバート・フレデリック・ママリーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアルバート・フレデリック・ママリー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS