チャタル・ヒュユク
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/09 18:11 UTC 版)
チャタル・ヒュユク(-・ホユック,-・フユクとも;Çatalhöyük /ʧɑtɑl højyk/ ,Çatal Höyük , Çatal Hüyük)は、アナトリア地方南部、現在のトルコ共和国、コンヤ市[1]の南東数十km、コンヤ平原に広がる小麦畑をみおろす高台に位置する新石器時代から金石併用時代の遺跡である。その最下層は、紀元前7500年にさかのぼると考えられ、遺跡の規模や複雑な構造から世界最古の都市遺跡と称されることもある。チャタルとはトルコ語でforkを意味し、ヒュユク(ホユック)で丘や塚を意味するので「分岐した丘」の意味となる。
- ^ 古代ではイコニウム (Iconium)と呼ばれた。
- ^ ルイス・ビンフォード (Lewis Binford)の提唱した客観的な統計処理と自然科学的年代測定法に加えて文化変化の過程を解明するために文化進化論を考古学に持ち込んだ「ニュー・アーケオロジー」「プロセス考古学」に対して、客観性を保とうとしても現代社会に生きる考古学者は現代の文化的バイアスから逃れられないから、あくまでもその遺跡や文化の脈絡で考古資料の意味や位置づけを解釈しなければならない、という立場の「ポスト・プロセス考古学」の主唱者として知られる。しばしば、「プロセス考古学」と「ポスト・プロセス考古学」の対峙は、文化進化論とボアズ学派の対立に見立てられる。[1], Ian Hodder
- ^ ケンブリッジ大学のカリスマ的な考古学者で、西アジアやギリシャの遺跡の調査成果から、「初期国家単位」 (Early State Module)の概念や黒曜石をはじめとする交易の研究から「離心減少モデル」とそれをいくつかのパターンに分けてグラフ化したフォールオフ・モデルを提唱したこと、インド・ヨーロッパ語族は、アナトリアが「原郷」であって、その言語のひろがりは、農業の普及と移住の結果であるという説を唱えたことなどで知られる。cf.Colin Renfrew
- ^ たとえば、VIA層のある「祠堂」では、北西部の基壇の下から男性の遺体、別の基壇からは女性と子どもの遺体が発見された。
- ^ この印章のかたちには、渦巻き、三角形、格子状など深い刻線で刻まれた幾何学文が彫られている。この印章が押印されたものが出土しないため、腐りやすいものや朽ちてなくなるようなもの、たとえば、織物、皮革製品などに用いられたのではと推察されている。
- ^ 後述する「祠堂」のひとつから発見された。
- ^ 英語では、shrineと表現され、チャタル・ヒュユク遺跡の場合、日本語では、「祠堂」という訳語を与えることが定着している。
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