Me 410 概要

Me 410

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/16 00:42 UTC 版)

概要

重戦闘機として設計された機体だが、高速爆撃機としても運用された。本機は基本的にMe 210を直接改修したものであったが、悪評や設計の短所があるMe 210との関連を嫌い、Me 410と命名された。

設計および開発

Me 210の開発は1939年から行われていたものの、この航空機は極めて不安定なことがわかり、完全な規模での量産が考慮されたことは全くなかった。レイアウトの改修はMe 210CおよびMe 210Dに対して行われ、これにはいくらか優れた点が認められた。そこでMe 210Dを使用して研究が進められ、従来の型式の代わりとして、この機体には「新規」の型式であるMe 410の使用が決定された。

Me 210とMe 410との間の大きな変化は、機体がより大型化されたこと、より強力なダイムラー・ベンツ DB 603Aエンジンへの換装があげられる。Me 210Cが使用したダイムラー・ベンツ DB 605が1,475PSであることに比較し、DB 603Aエンジンは1,750PS(1,730馬力、1,290kW)の発揮が確認された。エンジンの性能はMe 410の最高速度を625km/hへと増強し、また上昇率、実用上昇限度の顕著な改善が見られた。特に注目すべきは巡航速度であり、これは579km/hに上昇した。搭載容量も、機首下の爆弾倉に装着可能な量よりも、多くの兵装重量を携行できる点で改善された。この処理には50kg爆弾4個を懸吊するためのシャックルが翼下に加えられている。設計変更により、さらに680kgの搭載量がMe 210の元設計に対して加えられたが、余剰のエンジン出力はこうした相違点を十二分に補った。

Me 210とMe 410を側面でつないだ、翼上面形の比較。

新しい形式の機体には、胴体部分の延長、新型で自動式の前縁スラットの変更点が含まれるが、これらは2つともMe 210で試験されており、劇的に操作性を改善させることが判明していた。スラットはもともと最初期のMe 210に装備されていたものであるが、量産型では貧弱な操作性を理由として撤去されていた。スラットには急激な旋回に入ると開く傾向があった。急旋回は翼前縁部分での空気圧の低下を引き起こしたが、もともとスラットは低速での着陸進入のために設計されており(この問題はBf 109Eの試作機において最初に観察された。)、これと類似して低圧での作動が促進されたことによる。これは航空機が滑らかな飛行を維持する上で問題を起こした。しかしながら横不安定性に関する主要な問題が処置された時、これはすでに本当の原因ではなくなっていた。初期のMe 210の翼は、以前のBf 110と比較して後方に空力中心を置いた翼平面図で設計されていた。また、翼平面図において、各エンジン・ナセルを越えた外翼部分に、内翼部の6.0度という前縁後退角よりもわずかに大きい12.6度の前縁後退角を与えた。こうしたことは、元設計のMe 210が飛行する際に酷い操作特性を示す結果に終わった。新しいMe 410の外翼は、Me 210と比較してもっと前に空力中心を持ってくるよう翼平面図が修正された。これは外翼と内翼の前縁後退角を同一とし、両方とも同じく5.5度の後退角を持たせて飛行中の操作性を改善した。

配備は原案で必要とされたよりも2年遅れており、1943年1月から開始され、1944年9月まで続いた。これにより、すべての形式を合計して1,160機が、メッサーシュミット・アウクスブルクおよびドルニエミュンヘンで製造された。登場時、ドイツ航空兵が対峙する高性能の連合国戦闘機の集団を防ぐにあたり、増強された性能が充分ではなかったとしても、この機体は搭乗員から好評を以て迎えられた。

作戦

Me 410夜間爆撃機はイギリス空軍夜間戦闘機にとり捕捉しがたい目標となっていることが確かめられた。イギリス上空で作戦行動に従事した最初の部隊はV./KG 2であり、夜間のMe 410の最初の喪失は1943年7月13日/14日であった。この撃墜は英国空軍85飛行隊に所属するモスキートが果たしている。

BK 5 機関砲を装備したMe 410 A-1/U4が、アメリカ陸軍航空軍のB-17に攻撃を終了し離脱する場面。

Me 410はまた、アメリカ陸軍航空軍の昼間爆撃機群に対し爆撃機駆逐機として使用された。ウムリュスト・バオゼッツェ工場で作られた改修キットによって、利用できる限りアップグレードした機体は全て、設計から採られた「/U」の接尾辞が付いた。Me 410 A-1/U2は、2門の20mm MG151/20機関砲を機首下部のウェポンベイに追加装着した。またA-1/U4では代わりとして「ボルトカノーネ」シリーズ、50mm BK 5 機関砲を装着した。多数のMe 410はまた、爆撃機編隊を崩すため、翼下に4基の発射管を備えた。これは改造された21cm WGr 21 ロケットランチャーである。2個の「航空団」、第26駆逐航空団および第76駆逐航空団は1943年後期に両隊ともMe 410を受領した。

これらの部隊は護衛のない爆撃機群に対して適切な成功を収め、アメリカ陸軍航空軍の昼間爆撃機編隊のうち相当数の撃墜に成功した。ドイツ空軍には不幸なことに、Me 410はP-51マスタングスピットファイアのような軽量の単発戦闘機との格闘戦において敵たり得なかった。1944年の春、Me 410の編隊は、爆撃機群を護衛する連合軍の戦闘機集団と遭遇した。戦闘機群は通常、コンバット・ボックス編隊のかなり前方を飛行し、どのようなドイツ空軍の抵抗をも制して航空優勢を作り出した。結果、Me 410の以前の成功は今や、護衛された爆撃機群に対してはしばしばドイツ軍側の損害で相殺された。この一例としては、1944年3月6日、第8空軍の重爆撃機約750機によるベルリンへの攻撃中、Me 410は16機が撃墜され、戦果はB-17爆撃機8機とP-51 4機であった。これはMe 410の護衛に付けられたBf 109およびFw 190に撃墜されたものである[1][2]。翌月、4月11日、ゾーラウロストックオシャースレーベンを攻撃中の第8空軍爆撃機を急襲したII.ZG 26のMe 410はまれな成功を報告し、味方機の損失なしで10機のB-17を撃墜した。しかし部隊の運は尽き、同じ急襲中、彼らの2度目の任務はP-51によって迎撃を受けた。この戦闘機群は8機のMe 410と3機のBf 110を破壊した。搭乗員16名が戦死、3名が負傷した[3]

1944年夏から、ヒトラーが好んだ爆撃機駆逐機であっても[4]、Me 410の部隊は帝国防衛任務から外され、またその生産も単発戦闘機が要望されたために段階的に削減された。Me 410の飛行任務は偵察のためだけに残された。少数のMe 410はノルマンディー上陸作戦の間、ユンカースJu 188とともに高高度夜間偵察任務のため使用された。


  1. ^ W. N Hess, p82
  2. ^ Caldwell & Muller, p137
  3. ^ Caldwell & Muller, p183
  4. ^ Caldwell & Muller, p198
  5. ^ Andrew Simpson (2007年). “Individual History MESSERSCHMITT Me410A-1/U2 W/NR.420430/AM72/8483M MUSEUM ACCESSION NUMBER 85/A/78”. Royal Air Force Museum. 2011年12月23日閲覧。
  6. ^ Rechlin E'Stelle Erpr. Nr. 1929. Br.B.Nr. 773/43 g.Kdos.





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