石戸藩 領地

石戸藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 11:59 UTC 版)

領地

石戸領

石戸かばザクラ(北本市石戸宿)。東光寺境内にある、樹齢800年以上とされる古木(天然記念物)。蒲冠者源範頼ゆかりとの伝承を有し、江戸時代後期の曲亭馬琴が随筆『玄同放言』で取り上げるなど、高名な木であった[17][18][19]

天正18年(1590年)8月1日の家康関東入国から間もない9月7日、代官頭伊奈忠次から牧野康成に「御知行書立」という文書が出されている[10]。これによって康成に、畔吉領家小敷谷藤波(以上、現在の上尾市)、日出谷・川田谷(現在の桶川市)、石戸八幡原(現在の北本市)、馬室(現在の鴻巣市)の石戸領全8か村5000石が引き渡された[10][5]。5000石という知行高は、迅速な知行割を行うために北条氏時代の貫高を引き継いだもので、天正19年(1591年)に実際の縄打ち(検地)を行い、過不足の調整が行われたと見られる[10][5]。元和6年(1620年)の元和検地の頃には村切り[注釈 7]が行われ、たとえば「石戸村」は石戸宿村・下石戸村・荒井村・高尾村に分割された(その後、下石戸村は下石戸上村と下石戸下村に分けられた)[10]

江戸時代後期の『新編武蔵国風土記稿』では、武蔵国足立郡の区分として「石戸領」が挙げられ、以下の21か村と数えられる。石戸領の諸村はおおむね牧野一族が幕末まで知行した[20][5]。ただし各村の持添新田については幕府領に組み込まれ[21]、小林村のように他家の知行地となった村もある[22]

  • 現在の鴻巣市域:滝馬室村・原馬室村・小松原(原馬室村枝郷[注釈 8]
  • 現在の北本市域:石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村・高尾村・荒井村・北袋村(荒井村枝郷)[注釈 9]
  • 現在の桶川市域:上日出谷村・下日出谷村・川田谷村・樋詰村(川田谷村枝郷)[注釈 10]
  • 現在の上尾市域:領家村・藤浪村・古泉村(藤浪村枝郷)・中分村・畔吉村・小敷谷村・小林村(小敷谷村枝郷)[注釈 11]・菅原新田[注釈 12]

石戸領の村のうち、下石戸上村・下石戸下村・石戸宿村・高尾村・荒井村(近世初頭の村切りまでの石戸村に相当する)は、1889年の町村制施行に際して石戸村を編成した。

川田谷陣屋

石戸領の「本村」と見なされたのは石戸宿村であったが[11]、牧野氏の陣屋は川田谷村に置かれた[27][11][28]。川田谷村には平安時代創建と伝える天台宗の古刹泉福寺があり、中世には三ツ木城(城山公園に名を残す)や武城などの城が築かれた[5]

近世の川田谷村は東西14町・南北1里余の村域を有し、村高1200石を越える比較的大きな村で(元禄郷帳)[28]、陣屋が置かれたのは村の北西部の天沼であった[注釈 13]。なお、陣屋の所在地は現在の地名で桶川市川田谷字大平であるが[31]、大平は「土地台帳上の字名」で、自治会などのコミュニティの基盤となる「行政上の区」としては天沼地区にあたる[32]

この陣屋は「牧野本陣」[11]、あるいは「牧野陣屋」「川田谷陣屋」[注釈 14]と呼ばれる。慶安3年(1650年)に信成の遺領(隠居領)が3人の兄弟により分割された際、川田谷村も3分割され、陣屋は牧野永成(太郎左衛門)の所領に含まれることとなった[11]。陣屋がいつごろまであったかは不明であるが[11]、元禄期(1688年 - 1704年)には旗本が知行地を離れて江戸に常住するようになっており[11]、このころまでに(領主が在住して知行地支配を行うという意味での)陣屋は廃止されたと見られる[11]。江戸時代後期の文化・文政期に編纂された『新編武蔵国風土記稿』には、川田谷村に「陣屋」があることが記されており[27]、編纂時には牧野永成の子孫である牧野成傑(大和守。長崎奉行などを務めた人物)のものであるという[27][8]

日本歴史地名大系』によれば、陣屋跡地は明治初年におおむね削平された[29]。21世紀に入り、陣屋跡付近には首都圏中央連絡自動車道(圏央道)桶川北本インターチェンジが建設された[34][35]。2007年、国道17号(上尾道路)の建設工事に先立ち、陣屋跡周辺は「大平遺跡」として発掘調査が行われており[31][36]、陣屋に関連する区画溝と、見樹院(後述)に関連する遺構などが確認されている[37]

川田谷薬師堂は、川田谷陣屋が所在したことを示す名残りで、「牧野氏ゆかり」の堂宇とも説明される[34]。ただし、『新編武蔵国風土記稿』には川田谷陣屋内に「太神宮八幡の合社」と「稲荷弁天の合社」の2つの社が鎮守として祀られていたと記すものの[27]、薬師堂はこれとは直接結びつかない。牧野康成の弟で、関ケ原の合戦での負傷を契機に僧侶となった易然いねんが陣屋近くに「見樹院」という寺を建立しており(「見樹院」は康成の院号に由来する)[注釈 15]、この見樹院の跡地に、江戸時代後期に建立されたのが川田谷薬師堂であるという[40][注釈 16]

石戸御茶屋

石戸宿には徳川家の御茶屋(石戸御茶屋)が置かれていた[7]。この「御茶屋」は、家康らが鴻巣御殿での放鷹の際に足を延ばしたり、忍や川越での放鷹の往復の途次に休憩したりする場所であり、また主君を招いて催行する遊猟の地でもあった[7][8]。御茶屋跡(北本市石戸宿六丁目)には「御殿稲荷」がある[7][41]


注釈

  1. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  2. ^ 戦国期には石戸城を中心に各地とを結ぶ交通路があった[6]。小田原北条氏の勢力下では、相模国と武蔵国とを結ぶ伝馬制の規定の中に、石戸も盛り込まれている[6]。江戸時代に入り中山道が整備されるにつれて、石戸を通る道は広域交通を担う重要性を低下させ、地域の人々の生活のための道に変化していった[6]
  3. ^ 牧野一族には「康成」を名乗った人物が複数いる。半右衛門康成と同時代には、元・三河牛久保城主で、関東に移って以降は上野国大胡で2万石を領した牧野新次郎(右馬允)康成がおり、しばしば混同される。
  4. ^ 『藩と城下町の事典』は、石戸城(天神山城)に入城して陣屋を構えたとする[12]
  5. ^ 登戸の故地には真言宗豊山派の寺として勝願寺が再建されている。
  6. ^ 『藩と城下町の事典』は、石戸領が牧野家の知行地として残ったことを踏まえつつ、「石戸藩は事実上、ここで廃藩となった」と表現している[12]
  7. ^ 中世的な郷村を再編成し、村境・村域を定めて近世的な行政村を創出すること。
  8. ^ 明治初年に原馬室村に編入[23]
  9. ^ 北袋村は江戸時代の郷帳などで荒井村の枝郷として記されるが、「旧高旧領取調帳」では見えなくなっている[24]
  10. ^ 明治初年に川田谷村に編入[25]
  11. ^ 小林村も牧野家領であったが、『新編武蔵国風土記稿』編纂時には松平家2家(松平大和守・松平十蔵)の知行地とある。江戸末期か明治初期に小敷谷村に編入されたと見られる。現在の小敷谷の西端部にある小林寺は、小林村に所在する寺であった[22]
  12. ^ 明治初年に領家村に編入[26]
  13. ^ 『日本歴史地名大系』は「川田谷村」の項で「北西の天沼」に陣屋を構えたとする[29]。『新編武蔵国風土記稿』では川田谷村の「小名」が列挙される中に「天沼」が挙げられている[30]
  14. ^ 『埼玉の中世城館跡』(埼玉県教育委員会)では「牧野陣屋」、別名「川田谷陣屋」で載せられているという[33]
  15. ^ 易然については『寛政譜』にも記載があるが、住職となった見樹院の所在地を「足立郡天沼村」としている[14]。足立郡内で天沼村を公称した村は大宮領天沼村(現在のさいたま市大宮区天沼町)があるのみであるが、ここでの「天沼村」は川田谷村内の「天沼」と見られる。「大平遺跡」発掘では、見樹院に関連する遺構が検出された[37]。なお、牧野親成は康成の50回忌に際して関宿で「見樹寺」という寺を創建し[38]、さらに移った丹後田辺(舞鶴)では前領主京極氏が菩提寺として建立した瑞泰寺を引き継いで見樹寺と改称している[39][38]
  16. ^ 『新編武蔵国風土記稿』には薬師堂の記載がない。

出典

  1. ^ 石戸郷(中世)”. 角川日本地名大辞典(旧地名). 2022年5月15日閲覧。
  2. ^ 通史編 古代・中世 第6章>第1節>岩付城築城と石戸城”. 北本市史. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  3. ^ a b 通史編 古代・中世 第7章>第1節 >北本の城館跡>石戸城跡”. 北本市史. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  4. ^ 通史編 古代・中世 第7章>第1節 >岩槻道と松山道”. 北本市史. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 北本市史 通史編 近世 第1章>第2節>1 牧野氏と石戸領>石戸領”. 北本市史. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  6. ^ a b c d e 北本市史 通史編 近世 第1章>第3節 本宿と鴻巣宿>1 石戸宿から中山道>戦国末期の石戸宿”. 北本市史. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  7. ^ a b c d 北本市史 通史編 近世 第1章>第2節>1 牧野氏と石戸領>茶屋跡”. 北本市史. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 北本市史 通史編 近世 第1章>第2節>2 北本市域の領主>牧野氏”. 北本市史. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  9. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百六十七「牧野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1070
  10. ^ a b c d e 北本市史 通史編 近世 第1章>第4節>2 市域の検地概況>石戸領の検地”. 北本市史. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j 北本市史 通史編 近世 第1章>第2節>1 牧野氏と石戸領>牧野本陣跡”. 北本市史. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  12. ^ a b 『藩と城下町の事典』, p. 195.
  13. ^ 鴻巣宿(近世)”. 角川日本地名大辞典(旧地名). 2023年3月29日閲覧。
  14. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第三百六十七「牧野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1071
  15. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第三百六十七「牧野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1072
  16. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百六十七「牧野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1073
  17. ^ 北本市史 通史編 近世 第2章>第1節>1 村の概況>石戸宿村”. 北本市史. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  18. ^ 石戸蒲ザクラ・板石塔婆”. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  19. ^ 日本五大桜”. 北本市. 2023年1月6日閲覧。
  20. ^ 石戸領(近世)”. 角川日本地名大辞典(旧地名). 2022年5月15日閲覧。
  21. ^ 石戸宿村(近世)”. 角川日本地名大辞典(旧地名). 2022年5月15日閲覧。
  22. ^ a b 小林村(近世)”. 角川日本地名大辞典(旧地名). 2022年5月15日閲覧。
  23. ^ 小松原村(近世)”. 角川日本地名大辞典(旧地名). 2022年5月15日閲覧。
  24. ^ 荒井村(近世)”. 角川日本地名大辞典(旧地名). 2022年5月15日閲覧。
  25. ^ 樋詰村(近世)”. 角川日本地名大辞典(旧地名). 2022年5月15日閲覧。
  26. ^ 菅原新田(近世)”. 角川日本地名大辞典(旧地名). 2022年5月15日閲覧。
  27. ^ a b c d 『新編武蔵風土記稿』巻之一百五十一・足立郡之十七・石戸領川田谷村「陣屋」、内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之151』13/91コマ
  28. ^ a b 川田谷村(近世)”. 角川日本地名大辞典(旧地名). 2022年5月15日閲覧。
  29. ^ a b 『日本歴史地名大系 埼玉県の地名』, p. 283, 「川田谷村」.
  30. ^ 『新編武蔵風土記稿』巻之一百五十一・足立郡之十七・石戸領川田谷村「小名」、内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之151』13/91コマ
  31. ^ a b 大平遺跡(桶川市)”. 埼玉県埋蔵文化財調査事業団. 2023年1月8日閲覧。
  32. ^ 桶川市川田谷をもっと知ろう!”. 桶川市川田谷 薬師堂ブルーインパルス. 2023年1月4日閲覧。。記載の出典として『桶川市史』を挙げている。
  33. ^ 牧野陣屋”. 城と古戦場. 2022年1月10日閲覧。
  34. ^ a b 牧野陣屋(川田谷陣屋)”. 城郭放浪記. 2024年4月20日閲覧。[信頼性要検証]
  35. ^ 川田谷陣屋”. 城郭図鑑. 2023年1月6日閲覧。
  36. ^ 大平遺跡 第4次調査(桶川市)”. 埼玉県埋蔵文化財調査事業団. 2023年1月8日閲覧。
  37. ^ a b 報告書(近刊)”. 埼玉県埋蔵文化財調査事業団. 2023年1月8日閲覧。
  38. ^ a b 西(にし) 舞鶴市西”. 単語の地名 地理・歴史資料集. 2023年1月10日閲覧。
  39. ^ 舞鶴市: 見樹寺”. 2023年1月10日閲覧。
  40. ^ 武蔵桶川 将軍家光の信頼のもと旗本から大名に出世した田辺牧野氏が家康関東入府時に構えた『川田谷陣屋』訪問”. 4travel. 2023年1月6日閲覧。
  41. ^ 北本市定例記者会見項目 令和2年2月18日”. p. 15-16/60. 2023年1月6日閲覧。


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